身近なものがいいだろうということで、ネタは『青島旅遊図』という、こちらの人
が旅行で初めて青島に訪れて手にするような地図で、その端に「青島重大事件」
と小さな字でたった5cm×8cmのスペースに書かれたものです。国内観光旅行者用の
地図に、しっかりとした歴史が書き込まれているんですね。しかも、それが
そのまま日中間の歴史になっていて、考えさせられます。
(5元=約75円でした)
【日本、第一次世界大戦中に青島を侵略・占領】
第一次世界大戦勃発後、1914年8月23日、日本はドイツに対して宣戦
布告、日本軍は前後して同年9月2日・18日、龍口と勞山湾から上陸、
膠済鉄道と青島近郊を攻略した。ドイツ軍はついに1914年11月7日
投降、青島は以後日本の植民地と化した。
【中国北洋政府、青島を回収】
第一次世界大戦後、中国人民は日本に迫り、1922年2月4日、ついに日本に
中国との『山東懸案条約解決』の条約締結をさせた。当時の北洋軍閥政府は
巨額の補償金を支出、同年12月10日、青島の主権と膠済鉄道を回収
した。
【日本、第二次世界大戦中で再び青島を侵略・占領】
1938年1月10日、日本軍は市郊外の山東頭と桟橋より上陸した。当時の
青島市長兼青島陸海軍総指揮の沈鴻烈は蒋介石の不抵抗政策を推進、
早くも1937年12月27日に一万人にも及ぶ部隊を率いて魯西の南に向かって
撤退、日本軍は一弾も発することなく青島を占領した。
【中国共産党青島地方組織設立】
中国共産党第一次大会の精神に沿って、ケ恩銘が青島の党組織の設立の責に
当たり、1923年8月、ケ恩銘と膠澳督弁公署で職務中の中国共産党員
・王象午が共同して計画後、中国共産党青島グループを設立、ケ恩銘がグループ
長となった。
【5・29青島虐殺事件】
1925年4月、青島の日本資本・大康紗工場の労働者達は、自分たちが組織
した労働組合を日本工場主が潰そうとするのに抗し、全工場規模でストライキを
展開、内外の紡績関係などの日本資本企業労働者も相次いでストライキし
て応援した。5月29日、山東軍務督弁の張宋昌と膠澳督弁の温樹徳は2,000名
余の軍隊・警察を出動、ストライキの労働者を弾圧した。死亡者8人、
重傷者17人、逮捕者69人、解雇者3,300人、本籍地に送られた者500人以上に
及んだ。5月30日、帝国主義はまた上海で"5・30"惨案を引き起こした。
史上、この二回の惨案を"滬青惨案(滬は上海の別称)"と称している。
1936年冬、青島の日本資本紗工場の2万4千名の労働者達は再び同様な
ストライキを起こした。
【アメリカ軍、青島を盤踞】
1945年9月11日、アメリカ海軍第七艦隊は青島港に到着、10月11日〜12日、
アメリカ海軍陸戦隊など2万7千人余はグアム島より青島に至った。並びに、
国民党第八・第五十四等の軍隊を青島に運び、国民党が青島と膠済鉄道を
占拠し山東解放区に進攻する手助けをし、青島はアメリカの中国における
主要な軍事基地となった。青島解放前夜、アメリカ軍は撤退した。
【青島の解放】
1949年5月3日、わが華東野戦軍第32軍などは青島即墨戦役を発動、
20数日におよぶ戦闘を経て、6月2日12時頃、青島の全ては解放された。
青島の解放時、水道・電気は断たれることなく、また電話も通じ、港湾施設
や企業工場は完全に無傷で、生産と社会秩序はすぐに回復した。
(2002.9.11) (2002.9.17「関島」を「グアム島」と修正)
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