瑯琊台をたずねて

 地図を見ると、私のところから西南に50qほどのところに
瑯琊台がある。自転車で行けぬこともないとふんだが未知
の土地を甘く見てはいけない、とバスで行った。

  始皇帝の出迎え
最近の彫刻だがなかなか堂々としている

始皇帝の背後の瑯琊文化陳列館

 膠南からのバスを降りれば、それらしい建物が小高い山の中腹にあるでは ないか?入場券30元ということだが、今回は青島ビール約10本分だといったこと は頭をかすめず、入場。

 すぐに始皇帝像に迎えられる。風に向かって両手をさしかざす 姿は、大丈夫そのもの。細部にはこだわらないおおまかな彫像の作りは全体的 に気持よさそうな解放感にあふれている。幾分上を眺めているその眼は、 現実をのりこえようとしているかのようだ。背後には、瑯琊文化陳列館 が荘重な姿で控えている。「観光地」的な軽薄さはなく、全体的に落ち着いた 雰囲気をかもしだしている。

 瑯琊文化陳列館の中も、隷書・篆書といった書がうまく使われて いて、博物館らしさを感じさせる。この陳列館も含めた小高い山一帯は 『瑯琊台風景名勝区』と呼ばれ、1994年頃に造られたとのこと。 年月の洗礼を受けていない筈なのに感じられる大人の風格は、設計思想のよさ によるのだろうか?……と感心しつつ、陳列館で一応の知識を得ると、徐福を求め、 山の中の小道を5分ほど歩く。

    徐福館

        徐福像

 徐福館も立派な落ち着いた外観。中の展示も、核心をついたものに絞り、 猥雑さを感じさせない。中日交流に貢献した──という視点もいやみがない。

 徐福ってどういう人なの?ということで、ここで簡単に紹介すると……。

 初の中国中央集権国家を作った秦の始皇帝にとって、ただ一つ自分でできない ことは「不老長寿」の獲得であった。その始皇帝の欲望をくすぐり、「東に蓬莱 という島があり、そこには不老長寿の薬があります。私が必ずや持ってまいりま しょう」と語り、巨万の富を得て船で東に向かったのが徐福であった。しかし、 彼はそのまま帰ることはない。とはいえ、東の国・日本には徐福の墓といわれる ものが各地にある。そして別名・蓬莱山と呼ばれる富士山がその日本にはある。
  徐福渡航地図

 これが、日本で通用している平均的徐福像だ。だが、僕は徐福の姿に どうしても、山師・コロンブスを重ねてしまう。つまり「東方には金銀財宝・ ふんだんの香料がございます」とスペインのイザベル女王(だったかしら?) に取り入り、当時の世界地理的常識から逸脱した論理で納得させてしまう ペテン師・イカサマ師的性格を徐福に見てしまうのだ。

 むろん、それが悪いわけではない。むしろ、だからこそ面白いと思う。 「常識」の枠を越えた時、人は「嘘だ、でたらめだ、ほら吹きだ」という。 でも、あたりまえだという世界は実はない。自分の「常識」が壊されるのが 怖いから排他的に攻撃的に出て罵倒するのだ。そんな人々の攻撃性に打ち勝って、 「常識」の壁を打ち破ったコロンブスは偉い!物欲がバネになっていたと しても偉い!

 ということで、徐福は単純な人間ではないと思うのだ。したたかな 何かを持っていたのではないか。また、桃花源的なユートピア思想が背景に あるとも考えられる。「山のあなたの空とほく」というあの考えだ。

 徐福の像、彼のたどった渡航図をみて、空想はふくらむ。

  天への道!
     雲梯

      秦御路
 秦御路を登っての風景

 徐福館を出ると登りの階段がまっている。336段、雲梯だ。BC219年に 始皇帝が瑯琊台を築いた時に三つの御路を作ったという歴史資料に基 づいて1994年に修築したとのこと。ゆるやかな坂なので何てことはないな、 とみくびったものの、初めに見えた坂は画像で写っているのと同じようにその一部 でしかなかった。かなり息がきれたところで、中腹の観龍閣(右下画像) に到着。龍は見えずとも、美しく的確な休憩所を設置している。なかなかの ものだ。
    観龍閣

 「歩かない青春なんてあるの?」ということで、そこで休憩もせずそのまま 歩くことにする。うっ、と思わずためらう急な石段が待ち構えている。これほど 急な石段は見たことがない。秦御路だ。雲梯と同様、三つの御路の一つ。しかし、 登るにはためらわれる。『身体の悪い人は登らないように』といった掲示板があり、 ますます萎縮させる。う〜ん、コロンブスはどうしたの?徐福は?と言い聞かせ つつ、登りきる。『秦御路を登っての風景』画像を見ればわかるように、 かなりの角度だ。
  秦代建築遺址

 始皇帝が徐福を送るためだけに瑯琊台を造るなら、それは海岸に 造る筈だ。もし、この修復されたこの位置が正しければ、始皇帝はそれ以外の ことが頭にあったとしか思えない。「超越性」だ。不老長寿を求める心とつな がるそれだ。山と海、その彼岸に見果てぬものを見ようとする心がそうさせた のだ。きっと徐福は、そういう人の心をも見抜いていたのだろう。

 ……と思いつつも、現実に歩く身としては、しんどいものはしんどい。 でも自分の足で登って、階段の途中で、思いがけない遺跡を見た。右の画像の 『秦代建築遺址』だ。そこには簡単に次のような解説がされていた。

 「この遺址は1993年10月御路を修復する時に発見された。その用途は現在 以下のいくつかの可能性が推測されている。@越王・勾践が築いた古い基礎の 上に、始皇帝が新しい台を築いたので、これは古い基礎だと考えられる。A秦 人は風水を信じていた。始皇帝はその迷信を振り払うために"鎮山の宝"をここ に埋めて修築した。B始皇帝はその年の東巡時、瑯琊台に三ヶ月滞在した。 その宮殿跡である。──いずれにせよ、以上の推測は今後の一層の考古学的発 掘に待たれる。」


   頂上で (群彫)
 右側で腰をかがめているのが徐福

 始皇帝が指さす先は……
    方角的には日本?

 海が見渡せる頂上には、彫刻群が立ち並ぶ。海抜183mほどの低山だが四方を 見渡すことができる。『史記・秦始皇本紀』の下りをふまえて造られたという。

 司馬遷は以下のように記している。

 「28年(BC219年)、始皇、東し郡県を行き、……南に瑯琊に登り、…… 瑯琊台を作り、石刻を立て、秦の徳を頌し、意を得るを明らかにす。……既に して已み、斉人徐市(徐福のこと)等上書し、『海中に三神山あり、名づけて蓬莱, 方丈,瀛洲と曰ふ、仙人之に居す』と言ふ。請ひて斎戒を得、童男女と之を求む。 是に於て徐市をして童男女数千人を発し、海に入りて仙人を求めしむ。」

 靄のためだろうか、始皇帝が指さす先の蓬莱や日本は見えなかった。

   望越楼
ピンボケが逆に良い効果をあげている?

 頂上から少し海側に下ったところに望越楼がある。楼には南をじっと 眺めている壮士が一人。越王・勾践だ。BC472年、勾践が瑯琊に遷都し、 「観台を立て以て東海を望む」という史書にそって建てられたという。

 嘗胆や会稽の恥との時間的関係は?西施もここに来たのだろうか?と 疑問はわくが、ファインダーを覗く目はどうしても近くに焦点がしぼられてしまい、 遠い勾践の姿に焦点が結ばれることはなかった。

(2002.11.30訪問、12.18記)


 ※補足 こちらの本を見ていたら、以下のような記事をみかけた。
 「1980年代初め、中国で全国的な地名調査が行われた時、江蘇省の徐阜村は昔の 徐福村だったということが確認された。それがきっかけとなり、専門家が徐福村 周辺の調査を進めた結果、徐福の旧居や当時の造船場など多くの遺跡が見つかり、 1985年、正式に徐福村という名前が復活した。」
(2002.12.22記)


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