言 葉

同志(tongzhi)

 夕刻、雨が止み晴れ間が見えたので、郵便局へ送金に行く。5時過ぎでもOK のようなので、列に並ぶ。すぐ前は、仕事の汗を匂わせている二人。「打工」に来ている のだろうか、一目見て故郷へ送金に来ているように思われる。
 「同志!」窓の受付の女性が僕の目を見て、軽く促す。前の人が終わったので、 僕に番が回ってきたのだ。すぐ、書いてきた伝票を渡す。
 その女性がコンピュータに向かって作業をしている間にちょっと思った。「同志!」 というのは、本来すごい言葉ではなかったか?こんな時使うのは「先生(xiansheng)」 くらいなのでは?TVでも「同志!」は、かつての時代とまではいかなくとも、下手に 出て相手に促すような場面で使っていたような気がする。
 ジョージ・オーエルの『カタロニア賛歌』では、この「同志!」が一つの合言葉と して登場していた。「革命」と共に使われ始めた「同志!」は、退潮とともに使われな くなっていく……
 仕事が終わって、女性は領収書をくれる。しかも、ポンと投げて!なるほど、 あの「同志!」は、「次の方」ほどの意味もなかったのだな、と思い至る。革命の友愛の 中で親しみをこめて使われた「同志!」という言葉は、死語となって使われなくなった 方がいいのか、それとも、形骸化した語として残った方がいいのか、帰りに自転車 で走りながら考えた。 (2003.5.19)

第2回日本語教育研究会

 4月27日に「形容詞のアクセント」・「中国人学習者における助詞『が』 と『を』の混乱分析」というテーマで開かれた。
 会話を教えていて、アクセントがしっかりしていれば伝達能力を持ちえるのでは ないか、と考え始めている。しかし、無意識下にあるものを意識して法則化すること の難しさを、「アクセント」ではつくづく思う。また、僕自身は東京アクセントかな と思っていたものの、「毎日」「参る」(いずれも頭高型)を、違った形で発音して いた自分もいる。
 また、助詞『が』『を』では、僕の私見では、「何欲しい?」 「何欲しい?」、「海見たい」「海見たい」、 「絵好きなの」「絵好きなの」──はいずれも 正しいと思う。助詞によってもたらされた日本語のソフトさが関連しているのでは ないかと、勝手に思っている。
(2003.4.30)

青島日本語教育研究会

 前に紹介した熱心な同僚の働きかけで、3月30日、「青島日本語教育研究会」 が発足した。「教研」というのは、なつかしい響き。
 自分の頭の中だけで、グルグル回って定着していかないものが、ストンと 着地する楽しさがある。
(2003.4.18)

日本語のアクセント

 後期、2月から1年生のヒアリングの授業を担当することになって、一番 気になっているのは、アクセント。関係する本をのぞいてみると、全てを貫く 法則性はない。しかし、日本語らしさの要の一つはアクセントにある気がする。
 日本人がふだん意識することのないアクセントが、実は、外国人にとって、 かなり重要なポイントのように思える。 (2003.4.18)

没事ル

 TVを観ていると、なんでもない、どういたしましてと言う場面で「没事ル」 という言葉がよく出てくる。「没什麼」は使われることが少ない。語感的には 「没什麼」の方がきれいな感じで、「没事ル」は投げ捨てるような言い切りの 感じがする。
 それは中国語に習熟していない人間の感性だ、あるいは外国人の 勝手な感性だと言われればそれまでだが、どうしても「没事ル」には、おつり を投げてよこすような冷たさを感じてしまう。
 ついでにもっと言ってしまうと、ゆったりとしていた時には「没什麼」を 使っていたのに、時代のテンポがあわただしく、せちがらくなると共に 「没事ル」と短時間で言い切る言葉が台頭してきたとすら思える。 (2002.12.22)

普通話

 学院の基礎過程に『普通話』があると知り、早速授業に出席した。 もしかすると自己紹介をさせられるかも知れないし、その上、歌の一曲も 所望されるといけない……と、それなりの心構えと身だしなみで授業に 向かう。学生の身になるのは何年ぶりだろう、この緊張感っていいな、 と心も引き締まる。

 しかし、教室に行って驚いた。なんと170人もの学生がいる。先生は、 もちろん一人。学生諸君は、清涼飲料水を持ち込んだり、携帯が鳴ったり、 おしゃべりをしたり……とその屈託のなさは日本と変わりがない。 とはいえ、マイクなしに身振り手振りを交えて、90分も懸命になって授業を 展開していた先生には頭が下がる。
 授業内容は、普通話の発音に関わる理論的なもの。「単元音」、「舌元 単元音」・「舌尖単元音」・「巻舌単元音」といった専門用語が続出する。 授業を受ける新鮮さと、なるほどなという思いで、ノートをしっかりとる。
 この授業は、方言(山東省出身の人が多く、山東方言はかなりあるらしい) を親しんできた学生に普通話をマスターしてもらうためにあるそうだ。 しかも、試験では、1級甲・1級乙・2級甲・2級乙と判定され、それ以下は 不合格の由。
 広い中国、お互いに通じ合える共通語としての普通話を体得するための 教師と学生の努力は、日本では考えられないものだなぁ、と痛感した。 (2002.11.19)

中国語の「心」≒日本語の「気」?

 同僚に熱心な人がいて研究会を立ち上たい、ということなので15日、 初回の会を開いた。

 まじめくさったのはイヤだから……と、大学時代のゼミの癖でビール 片手にやったのはちょっとまずかったかもしれない。中国語の「心」は 朝鮮・韓国語、日本語ではどうなるか?という格調の高いテーマだったが、 ビール10数本の価値ほどには深まらなかった。
 それでも中国語で頻繁に出てくる「操心」「担心」「当心」「放心」 「費心」「灰心」「開心」「耐心」「傷心」「貼心」などで、日本語に 訳した時、「心」という漢字を使って訳すことは少ない、むしろ「気」 が相当することが多い──ということが焦点になった。
 ところで、朝鮮・韓国語では、「心」をそのまま使うことが多いとのこと。 生煮えだが、結論を出さない会なので、「気」になりながらも深夜12時半、 お開きになった。 (2002.10.18)

溝通(goutong)

 「溝通」という言葉がTVに良く出てくる。コマーシャルの企業名にも あるし、ドラマの中でもよく使用されている。例えば、良く観る学園ドラマ で、教師と生徒の間の単純に「communication」の意味で使われている。 辞書にも確かにその意味が載っている。でも、昔はそれほど頻繁に使われ なかったのでは?上から下への(あるいは下から上への)意思疎通という形 ではなく、横と見る形でのの意思疎通が必要になったから、頻繁に使われる ようになったのでは? (2002.9.22)

走婚(zouhun)って?

 TVで雲南省西北部に住む「摩梭人」の風俗として紹介されていた。 (「摩梭」ではなく「摩梭」と表現──確か少数民族として承認されるためには一定の人口が 必要なのですよね)  人口2万人の「摩梭人」は、「走婚」という習慣があるという。これはどう いう意味なの?番組では明らかに「結婚」に対立するものとして「走婚」と 表現され、文革時代に「結婚」が迫られたがそれは我々にはなじまない、 「走婚」が良いと50歳代の男性は語り、また同世代の女性は、「走婚」は 男にはいいけど女は被害を被るだけだと言い切っていた。番組の半ばから 観たせいもあり、「走婚」とはどういう男女関係をとることなのだろう?、 今一つ分からない。 (2002.9.22)

 やはりTVを観ていたら、「摩梭人」の風俗を紹介していた。 そのうちちょっとだけ「走婚」について触れていた。男が女の元に通う「通い婚」 だという。生まれた子供は女性の姓を名乗るという。昔の日本の「通い婚」 とそっくりなのに驚いた。 (2002.10.21)

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