宿遷をたずねて
宿遷(しゅくせん/スーチェン)は項羽(前232-202)の故郷。
淮安からバスで2時間ちょっと。「行きたい」と思いながら、
なかなか行けないでいた。そしてやっと今回、項羽に会えた。
項王故里
「おお、寒」、身体は冷え切ってしまった。宿遷は、あの
京杭大運河
に沿って徐州寄り、北西に上った位置にあり、新聞で見る かぎり、淮安よりいつも寒い。確実に零下を切っている中、まずはともかく 腹ごしらえして身体を温める。
「宿遷市城区図」をながめ、現在位置を確認。宿遷の市街は、淮安より ずっと小さい。しかし、道路が整備され、とてもきれいだ。道幅もひろく、 将来を考えた作りになっている。しばらく歩き、それからタクシーをひろう。 「どうして一人なの?」と女性ドライバー。「孤独で、単独行動がすきだ から」と応ずる。そういえば、人を範とせず、自分だけを信じ大胆に行動 した項羽こそが、真に孤独だった。
到着した
項王故里
は、左のような牌楼からはじまる。一見して わかるように新しい。今世紀になって造られたものだ。入場券を購入、いざ、
項王故居
へ。
英風閣
項羽
故居外観となっている建造物内側には、司馬遷の『項羽本紀』全文が石版 の形で掲示され、ここを抜けると、左のような堂々とした
英風閣
が広がっている。
この英風閣の中に見える白いものは何?と寄って見るまでもなく、それは やはり項羽像(画像右)。「英雄蓋世」と記された扁額は、垓下の歌から とったもの。
「力抜山兮気蓋世 時不利兮騅不逝 騅不逝兮可奈何 虞兮虞兮奈若何」 (力は山を抜き、気は世を蓋う 時に利あらず、騅逝かず 騅の逝かざる、 奈何すべき 虞や虞や 若を奈何せん)
思いと現実の落差、現実を動かせぬ非力な自分が歌われ、「覇王別姫」 として伝承されてきた。
項王手種槐
すると、虞美人も陳列されているのだろうか、と思いながら英風閣をぬける。 庭園には、「項王手ずから植えた槐(エンジュ)」があり、右側には 「烏騅馬」像が建てられている。
烏騅馬
エンジュの木は老齢。根はしっかりしているようだが、枯れて今にも朽ち 果てそう。だが、「国家一級古樹名木・槐樹・蝶形花科槐属・樹齢2200年」 と説明にあり、ならば、項羽が植えた可能性も確かにありうる。でも…… という気持はやはりぬぐえない。
それに比べて、繋馬亭にしっかり繋がれている烏騅馬のほうは、けっして 偽物ではない。精悍な風貌、疾走してきた後なのか、ハーッハーッと荒い 息づかいをさせ、とはいえ、まだ走りたくて走りたくて足をウズウズさせて いる。自転車はすべるように走るが、この馬ならきっと飛ぶように走るだろう。
虞美人
烏騅馬の左に写っているのが、最後の建物、
項王故居記念室
。 ここには、白いあでやかな虞美人が一人ぽつんと立っている。項羽と同じ建物 にいないところが何ともにくい。
掲示によると、彼女の故郷はこの宿遷の隣、シュヤン(*)だという。 シュヤン出身の学生は何人かいる。そう思うと、ずいぶん遠い存在だった 虞美人が、とっても身近に思えてきた。
*注:「シュヤン」の「シュ」は漢字表記では「沐」の「木」の右上に点 がある字。日本漢字にはこの字はなく、また Unicode でも表記できないため 中国語音にカタカナをあてはめて表現した。なお「ヤン」は「陽」。
この項王故居記念室の前には、
康煕歳次癸未六月上浣
項王故里
宿遷縣知縣三級 胡三俊 建立
と書かれた(むろん「項王故里」の字は特大)石碑があり、その碑の裏には
項王故里古有坊清初圮康
煕四十二年立碑一座於此
后碑身毀於文化革命然贔
屓尚存現復之
宿遷縣人民政府
公元一九八六年十月
と記されている。
清初に壊れ、1703年に建立されながら、文革によって破壊された碑を、 そのままの形で立て直す──という点に、歴史の連続性を重んじようとする 姿勢が見られる。
総じて、
項王故居
は派手さのない簡素な作りで、好感をおぼえた。 歴史を回想させる記念物は、淡白なほうがいい。なお、
項王故里
には、この
項王故居
の他に、
項王蝋像館
が隣にある。こちらは、 項羽・劉邦を初めとする同時代の著名な人物が蝋人形で立ち並ぶ。いかめしい 項羽に対して貧相な劉邦像、といった点に興味はひかれたが、イメージが 固定されてしまい、面白さに欠ける。
故里に別れをつげ、倣古商業街を歩く。すると、「西楚」を商店名にした 「西楚電脳」や「西楚超市」が目につく。むろん西楚覇王から名をとった もの。しかし、そこでふと疑問がわいた。楚王・項羽の故居がなぜこの 宿遷にあるのかという基礎的な疑問。
『項羽本紀』冒頭は、たしか
項籍者下相人也。
だったと思うけれど、その下相は現在の宿遷でまちがいない。すると楚は、 彼の祖籍なのだろうか。
(2005.1.7訪問、1.8記)
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