折節の移りかわり

 ■2006年7月3日、

    宿舎への道
この淮安の最後は、淮河画像で飾りたかったのだが、天気がそれを許さない。

 雨、それも雷を伴う大雨が続いたのだ。しかたない、毎日通った道を撮影 することにした。この道を空から見るとどうなるか?
Googleのサテライトマップでは、こうなる。

 二つのグランドが見える。その右側のグランドの左にあるのが、テニス・ コートとバスケット・コート。そのコートに面する北から8棟のアパート のうち、三つめが僕のところ。間にあるのがこの道だ。画像の左にある スケールを上側に移動してみると、拡大画像となる。

 すごいものだ。時代はここまで来てしまった。偏狭なナショナリズムに とらわれていることのバカラシサを画像が物語っている。

 2年の淮安を終えて、明日、中国南部へ旅行することにした。土日も 机にはりついてビールを、いや仕事をしていたので、10日ほどのんびり しようと思う。

 さらば、淮安! (2006.7.3)



 ■2006年6月29日、 午前中、突風と大雨。だが、午後になって一転、太陽が顔を出した。

 こういう時には、郵便局に荷物を郵送しに行くのに限る。というのは、 先週からこの地も梅雨に入ったらしく、時折、雷と大雨の襲われるからだ。

 郵便局通いは、25日から。今日は2回通ったので、通算6回。最初 は、つっけんどんで、愛想がなくて冷たい感じだったが、通うたびに 優しい所作が分かるようになってきた。

 「中国人は」、「日本人は」と一般的にくくるのには同意しない。 確かにサービスの一点で言えば、表面的には日本のほうがいい。しかし、 日本のそれは形だけのもので、その後、何らかの発展があるわけでもない。

 愛想なしに見えた女性に、会うたびに親しみを覚えていく、──という のがこちらのようだ。担当者は、龍梅さん。若くて働き者だ。 (2006.6.29)



 ■2006年6月26日、 夜、採点をしていると突然の停電。

 青島では頻繁にあったが、ここ淮安では初めてのこと。「うーん」 すぐ点くだろうと、おっとり構えていたが、5分経っても10分たっても、 梨のつぶて

 しかたないので、ベッドに横になってぼんやり。すると外から、お婆さん の声、おじいさんの声、そして子供の声。停電がどーだこーだということ とは無関係に、のんびり夕涼みしている声だ。

 そうだ、「夕涼み」の季節なのだ。月があるから外もぼんやりと明るい。 「夕涼み」という語も、いつか日本では死語になってしまうのだろうか。 (2006.6.26)



 ■2006年6月24日、 4科目の試験を提出して、ホッ。

 この機会に、2月以来手をつけないでいたこのページを更新しようと、 記憶の糸をたどる。

 記憶の糸というものは、一本の線としてあっても、その前後が入り乱れ、 時系列で書き直すということは、むずかしい。

 そう思った。 (2006.6.24)



 ■2006年6月10日、 朝8時から午後3時まで、会話の試験。

 ここでは、試験に「考査」と「考試」の二種類がある。「考査」は 授業内で評価するもの、「考試」は24日からの期末試験で試験をする もの──というふうになっている。

 30数人といっても、授業内でやるとなれば、一人3分足らず、忙しい ばかりで評価に自信ももてない。というわけで、授業のないこの土曜日 に一人10分の枠を取ってやることにした。

 発音とアクセントの矯正をしよう、と決めていたのだが、できたのは 4分の1ほど。マンツーマンの機会が、考査だけということになってし まったのも、反省点。 (2006.6.24)



 ■2006年5月6日、 テレビで連続ドラマ『沙家浜』を1日からやっている。


 テレビドラマ『沙家浜』
 『沙家浜』は、文革中の革命模範劇の一つ。1940年代、常熟の陽澄湖 ・昆承湖のほとり、沙家浜を舞台にした物語。忠義救国軍を名乗り、実は 日本軍の傀儡である胡傳魁・刁コ一を相手に、「春来茶館」の女将・ 阿慶嫂が、対抗するというもの。阿慶嫂は共産党地下党員で、新四軍の傷病 兵たちを守り抜く。

 市場経済の中国、文革当時の8大革命模範劇は、注目されていない。 だが、この『沙家浜』は生き延びている。中国中央放送局CCTVの11chは京劇 専門チャンネルだが、時折、『沙家浜』の有名なくだりを放映してい る。


 昔のシナリオ
 中国のネット上でも、『沙家浜』はよく話題にのる。女性主人公・阿慶嫂 が、男どもを手玉にとる──という点が、普遍性を感じさせているようだ。

 今回のテレビドラマは、その延長上にある。しかも、陳道明が悪役・刁コ一を演ずるとあって、注目されている。

 陳道明という俳優は、張藝謀の『英雄/HERO』で始皇帝を演じた、と 言えばお分かりになるだろうか。 (2006.5.6)



 ■2006年4月21日、 仕事場の北校舎まで自転車で走っているうちに、小雨にあう。

 路面がじっとりして、自転車にとっては走りやすい。スイスイ気分で、 もう快適至極。

 しかし、すぐそこが駐輪場という所で右にハンドルを切ったら、スリップ。 そして、転倒。だが、そのダメージは大きい。サイクルメーターのライン が内部断線してしまったのだ。

 7109.3kmで動こうとしないメーター。しょうがないけど、これからは 目測でしか距離を測れないことになってしまった。 (2006.6.24)



 ■2006年4月8日、

     駱馬湖
また
宿遷に行って来た。

 外国人教師のために大学が招待してくれたもの。清朝の乾隆帝が行幸する 際に立ち寄った「乾隆行宮」と既に訪ねた「項王故居」が訪問先。

 面白かったのは、駱馬湖に繋がれた船でいただいた昼食。なんでも、この 駱馬湖、汚染されていない湖として屈指とのこと。しかし、画像のように どんより霞んで景観は開けない。

 それでも、5つの肩書きを持つ地位のある人と、その職場の方々計4人と 共にした昼食は印象深かった。いわゆる上司に対して部下がどういう風に 語るかという点。そして、どうしても参席しなければいけないという面々 ではないはずなのに、ちょっとした関係で食事を共にするという点。

 このあたり、まだまだ分からないことが多い。 (2006.6.24)



 ■2006年4月6日、 「視聴説」の授業で、『千里走単騎/単騎千里を走る』を VCDで観てもらった。中国では、DVDよりVCDが普及している。 普通のPCで簡単に画像が見られるからだ。

 それから、「写作(作文)」の授業で、感想文を書いてもらった。

 この感想文がとても面白い。それぞれ、目をつける点がまったく 違うのだ。そして、思い先行、言葉足らずの中にどちらかというと 「へぇ!」というものがあった。

 書くということは、その人のこれまでの人生を表しているのだな ぁとつくづく思った。表現されたものの言語としての的確性の前に、 何を表現しようとするのか、というその人の全人格が立ち現れてしまう。

 考えてみれば当たり前のことなのだが。 (2006.6.24)



 ■2006年3月3日、 昼食を食べた11時半、ゆったりとベランダのリクライニング チェアに横になり新聞を見る。

 先月から、『揚子晩報』を定期購読しはじめ、昼食後のいっとき、新聞 をながめ、それから、かぶって数十分昼寝することにした。

 新聞によると、この1日から、信号無視して横断する歩行者、自転車 にも罰金が科せられるようになったとのこと。歩行者は10元(大瓶ビール 4本弱)、自転車は20元。

 だが、民警(ママ、交通整理の警官)が違反を見つけても、逃げてしまう とか、捕まえても金を持っていないとか、大変だとのこと。

 自転車族である僕は、赤信号でも渡ろうとする自転車・歩行者を見て いて、「あぶないー」といつも思う。「罰金」というやり方は役人的で 解せないが、車社会になった現在、なんとかしないといけない、という 認識だけは共有できる。 (2006.6.24)



 ■2006年2月16日、 今日から2学期。こちらは、9月始まりの二期制で、春節が明けて 2学期。

 懐かしい面々を前にして、なにかちょっとしたものを……という 気持になり、100円ショップで購入してきた80膳100円の割箸 を一膳づつ配る。

 「資源が問題になった10年ほど前、使い捨ての割箸はいけない という主張があり、当時、割箸は使わないような風潮があったので すが……。でも、すぐ、割箸に使用されているのは間伐材で、役に 立たない木を割箸にしているようです」などと言いながら。

 ところが、家へ帰って来て、はっとした。"made in china"と、 しっかり記されているではないか?緑の少ないこの地から、貴重な 樹木が日本へと渡り、80膳100円という低価格の割箸として販売 されているのだ。

 「市場」というものを考えさせられた。 (2006.6.24)



 ■2006年2月15日、 上海から淮安に戻る。

 昨日、飛行機で見た青空と白雲が眼に焼きついているせいなのだろう か、小雨の中にぼんやり見える景色が灰色にしか見えない。
(2006.6.24)



 ■2006年1月14日、 『千里走単騎/単騎千里を走る』を観た。

 一言でいえば、これは張藝謀の映画ではなく高倉健の映画だ。高倉健の イメージが画面いっぱいにあふれている。監督の作為を感じさせない。

 哀愁、翳り……、後姿で思いを語れる数少ない役者であることを、張藝謀 は知り抜いている。

 残念なのは、シナリオが食い足りない点。しかし、70歳代の高倉健から、 「高倉健」の魅力をここまで引き出し映像化したことで、おつりが来る。

 特撮・SFX映画から足を洗い、人間の味を求めた張藝謀に拍手を送り たい。 (2006.1.14)



 ■2006年1月10日、 試験が始まっている。

 学期末のせいか、掲示板には、優秀教師の表彰が、写真と説明とともに 貼ってある。以前ちょっとふれた先生とか、会うたびに好感を抱く英語の 先生のもあって、興味がひかれた。

 ちょっとしか知ってはいないけど、そのお二人の表彰理由を見て、なるほど と、うなづかされた。僕の受けた印象と重なるイメージでのべられていた からだ。

 しかし、教師の表彰というのは難しい。それは評価そのものだからだ。 その点、あの学生による教師の
授業評価表なるものと共通している。違うのは、学校の評価と もなると、学生による「人気投票」レベルではけっしてすまない点だ。

 仕事には、結果として業績がすぐ形で出るものと、そうでないものとがある。 セールスマン・政治家は前者、詩人・小説家・画家・哲学者・思想家は後者。 現実的効果が求められるのが前者であり、現実よりちょっと先、あるいは 未来を展望するのは後者。(よって後者ほど不遇な現実を送ることが多い)

 教師はどこに位置するか、中間か、後者寄りだろう。しかし、評価は、 現実に沿ってしか下せない。現実より先の可能性によって正しく判断できる のは神だけなのだから。

 そんなことを思った。 (2006.1.10)



 ■2006年1月7日、

     項羽像
宿遷に行ってきた

 目的は、項羽。軍事的才能では抜群の力を発揮しながら、政治的手腕に欠け ていたためもろくも劉邦にやられてしまった。

 世に跋扈する「政治屋」どもにやられぬ手立ては、ないものか。ヒントでも いい、項羽よ、教えておくれ。あなたこそ、その辛酸をなめつくしたのでは ないか。

 などという思いを持ってでかけてはみたが、項羽が教えてくれるわけも ない。項羽は項羽として超然とそこに存在していた。 (2006.1.7)



 ■2006年1月5日、 クリスマス以来ずっと曇天、昨日は雪がちらり、ほらり。ここ淮安から バスで1時間ほどの連雲港・花果山(孫悟空の出生地!)にも雪が積もった という。

 明日で一学期の授業が終了(中国は二期制)、やっと3科目計6本の試験 を提出したので、ホッとした気分。

 今日は久しぶりに太陽が顔をみせたのでセッセと自転車掃除。この地では、 年季10年という自転車がざらで、きれいな自転車は目立つということを言い訳 に、メンテをサボっていた。

 サイクル・メーターのセンサー位置設定に手間取ったものの、ともかく、 中国一万キロ走破も大丈夫!かなという段階にいたる。で、ふと思う。 ブラックボックスばかりになってしまった現代、もしかすると自転車だけが それを拒否しているのではないかと。

 フレームをはじめとしてそれぞれのパーツの役割をきちんと自分の眼で 認識でき、そして全てのパーツは交換可能だ。つまり1台だけのオリジナル 自転車も作れる。

 身近にあるもので、手入れをして磨き上げること、または創造への挑戦を 教えてくれるもの、それは自転車しかないのではあるまいか。 (2006.1.5)



 ■2006年1月1日、

    昇らない太陽
昨年のこともあり、今年はしっかりと初日の準備。

 選んだ場所は 里運河。あの向こうに太陽が昇れば……、と想像力をふくらませて、 6時半からじっと待つ。

 だが待てども待てども初日は見えない。ならば、せめて明らみゆく空を ……と思うものの、それもままならぬ。しかたなく、太陽のない画像だけ ものにして引き帰す。

 空しい。といっても、厚い雲におおわれた曇天。太陽が拝めるはずもない。 それに、いつも太陽が輝いているわけでもない。さんさんときらめく太陽、 その記憶を胸に、人は薄暗さの中、手探りの営みをしてきたのだろう。 (2006.1.1)



 ■2005年12月31日、 昨日・今日と 小雨。路線バス(公交車)で往復する。

 大学の スクールバスもあるけれども、路線バスのほうが面白い。ここでは、 前乗り・後降りのワンマンカー。料金箱に1元(約15円)を投入するか、 ICカードを使う。日本とそう変わらない。シルバーシートもある。

 違うのは、女性の運転手が多いこと。車内にゴミ箱が設置されていること。 そして、小学生は運賃が無料であるという点だ。

 雨で込んできてムッとする車内、3mむこうのお年寄りに声をかけて、 席を譲る若者がいた。 (2005.12.31)



 ■2005年12月30日、

  できあがった水餃子
「みんなで水餃子を作りますので来てください」と招待され、参加する。

 だだっぴろい学生食堂の2階、その片隅は餃子コーナーになっていて、 いくつものクラスが餃子作りの真っ最中。クラスみんなで餃子を作って 一緒に食べる、というのがこの時期の行事の一つのようだ。

 「きみ作る人、ぼく食べる人」といった差別はなく、おしゃべりしながら、 男子も女子もみんなせっせと手を動かしている。この辺りのむつまじさが、 いつも羨ましい。

 僕も皮の包み方を教えてもらい、やってみた。丸い皮の上に具をのせて 包むだけのことだが、これがなかなか難しい。手前よりも向こう側の皮を 多くしてそっちに皺を作らないと、とんでもない格好の餃子になってしまう。 でも「上手ですねえ」とほめて、さりげなく形を直してくれる女子学生。 この辺りも大人だなぁと思う。

 できあがると、大釜でゆでてもらい(画像)、いよいよ賞味のお時間。 おいしい!丸テーブル全体に笑顔が浮かぶ。若い人たちの笑顔はすばらしい。 (2005.12.30)



 ■2005年12月25日、 クリスマスの昨日・今日は、寒さもずいぶん和らぐ。で、陳凱歌の 『無極』を観た。

 大作だ。莫大な金銭を費やしただろうというだけの意味で。あとは何も 「無」。

 もしかして、陳凱歌は「中国」という地域性を乗り越えて映画を作りた かったのかな、と思いながら見続けても、何も見えてくるものは「無」。

 これならば、ジャッキー・チェン(中国名:成龍)の『神話』のほうがいい。 特撮・SFXもファンタジックな場面で抑制的に使い、全体的な構想が しっかりしている。しかも、女優が夢のように美しい。『無極』は、確か 陳紅、それに比べて『神話』の韓国人女優は桁違い。

 そういう「無」でしかない『無極』なのに、こちらの新聞はべたほめ。 「観客動員数で張藝謀、陳凱歌に負けを認める」、「『無極』を観た観客の 半数は二度みる」などと、ドッコイショ。

 いやはや、ここでも 小泉報道と同質の問題がある。ダメなものはダメなのに。 (2005.12.25)



 ■2005年12月22日、 冬至。昨日の新聞天気予報に、「21日7時ー22日7時、淮安−1〜−8℃」 とあるのを尻目に愛車にまたがる。

 だだっぴろい視聴覚室は、冷えきっていた。もごもご身体を動かしながら、 学生たちの来るのを待つ。

 一人、二人、……。ちらりほらりと来ないで、一挙に押し寄せてほしいなぁ。 人間一人が白熱電球一個分のエネルギーを放射するんだってぇ……。などと 心でつぶやいていると、なぜか、入ってくる学生はみな、ぼくのとこに、 封筒を置いていくではないか。ふつうの大きさのもあれば、特大のもある。

 クリスマスカード!そして、年賀カード!青島でも学生からもらったこと はあったけれど、こんな風に大量にもらったのは初めて。

 寒さもどっかへふっとんで、授業が終わると自転車をとばして、部屋へ 戻るや、頂戴したカードを読みふけった。 (2005.12.22)



 ■2005年12月18日、

  映画『無極』の看板
快晴の好天。メインストリート淮海路を歩くと映画の看板が目につく。

 『黄色い大地』(1984)、『さらばわが愛/覇王別姫』(1992)、『始皇帝暗殺』 (1999)の陳凱歌(チェン・カイゴー)の『無極/THE PROMISE』の看板である。 なんでも制作費・3.4億元(約50億円)とのこと。15日の公開初日だけで、 2115万元(約3億円)の切符売り上げ、『ハリーポッター4』を上回る これまで最高の記録を達成したと新聞は伝えている。

 しかし、大作路線がすばらしい映画になるとはかぎらない。『黄色い大地』 のカメラマンであった張藝謀(チャン・イーモウ)は、『紅高粱/赤いコーリャン』 (1987)で鮮烈にデビュー、『我的父親母親/初恋のきた道』という名作を作り ながら、その後『英雄/HERO』・『十面埋伏/LOVERS』といった駄作ばかりを 作っていた。

 とはいえ、その張藝謀、高倉健主演の『千里走単騎/単騎千里を走る』を制作 した。華麗な映像美の追求ではない何かを創りあげたのだろうか。そして、 陳凱歌は、僕でさえ目をつむると浮かぶあの黄土(『黄色い大地』)以上のもの を創ったのだろうか。

 クリスマスには、この『無極』『千里走単騎』の二本立て 特別ロードショーだという。しかし、切符代は50元(
ビール大瓶22本分)。迷っている。人民元生活者にとっては安くはない。 (2005.12.18)



 ■2005年12月16日、 「鳴くまで待とうホトトギス」ってなんですか、と中国人の先生に聞かれる。

 信長・秀吉に並んで家康の言葉として伝わっているものです。同時代を 生きた三人の性格差がよく現れています。でも、中国のたとえば三国志の 曹操・孫権・劉備とくらべるとスケールが小さいでしょう──などと答える。

 しかし、その先生は「おもしろいですね。ホトトギス一つで違いを表わす なんて」と、いたく感動していた。それはそうなのだろうとは思う。しかし、 一点でもって比較できるということは、小ささの証ではないか。それぞれに ついて別の物差しをもってこざるをえない、というのが曹操ら中国古代の 英雄ではないか。そもそも英雄とは、他者と比較不能だからこそ英雄とされる のではないか……。

 そう思いつつ、頭に浮かんだことがある。
首相・小泉は、その小英雄・信長に擬せられることを喜んで いるという。殺されることを含めてそうなのか、という点だ。

 見くびっているのだ。小泉は、本能寺もありえない、一人の明智光秀も 生まれない、と高を括っているのだ。 (2005.12.16)



 ■2005年12月15日、 部屋にいると、水道工事の人がいきなり来た。

 ためらったが、鋼鉄製の水道管を塩化ビニールにするために来たとのこと。 一人が、メーターのある流し台の下にガーガーと電動ドリルで穴を開け始める。

 すると、もう一人が、あれこれ尋ねてくる。そして「賃金はどのくらい?」 というお決まりの質問。
防犯柵工事の時にも聞かれて、まじめに答えたら「高くないなぁ」と 言われ、ちょっぴり気を悪くしていたので「当ててみて!」と対応。すると 「中国の賃金はすっごい差があって、分からない」とのこと。

 ふぅーん、と思っているうちに仕事は完了。流し台の下は、赤い粉で一杯。 外壁のレンガの粉だ。えっ、これで終り、いったい塩ビの配管はいつやるの ??と思って聞くと、「まだ決ってないんです」とのこと。

 数時間後、アパートの外側を見ると、どの階も同じ位置に穴が開けられて いた。 (2005.12.15)



 ■2005年12月14日、

   凍結した庭園
外に干していた洗濯物を取り入れたら、凍っていた。

 夜干していたわけでも、曇天であったわけでもない。晴れわたった太陽を いっぱい吸っておくれ、という思いをこめて午前11時に干しはじめ、午後 3時に取り入れただけのことだ。

 冬のひざしはかぼそい。9月には5時過ぎまで燦々と陽光がそそいでいた
ベランダサンルームも、今は、前のアパートにさえぎられて午後1時には 日陰の中に置き去りにされてしまう。

 すぐ側にある学院の庭園も凍結し始めた。冬だ。身が引き締まる。 (2005.12.14)



 ■2005年12月13日、

  「仲良きことは……」
手に皹(ひび)が切れはじめたた。

 晴天でも4℃〜−4℃の日々。右手がひどい。どうも気温だけではなく、 水(硬水)の影響もあるようだ。

 子供時代、皹・霜焼けは誰にでもできるものだった。痛く、そして痒い。 かけば感じられる快感。しかし、かけばかくほど酷くなる。快感に身を委ね ると復讐されるということを学んだのは、この皹だったのではないか。 そんなふうに懐かしい思い出をかりたてる皹だが、すこし痛い。痒い。 クリームを買いに行こう。

 手だけでは無粋なので、買ってきた果物と仲良く撮影(画像)。蛇足だが、 果物はこれで10元(約150円)。しかし物価差がある。例の
ビール本位制で考えれば大瓶4本相当。必ずしも安くはない。 (2005.12.13)



 ■2005年12月11日、

    石灰を塗装
一転して快晴の日曜日。でも、籠の中の小鳥となって部屋に蟄居。

 けれども、
鉄格子からだって、外は見える。そばのバスケットボール・コートの樹木 に日曜のしかも午後だというのに、懸命に何かを塗っている職人さんがいる ではないか。

 そういえば街路樹もそう。どの木でも、一本一本、地面から出ている下の 部分から1mほど白く丁寧に塗られている。かねがね「あれは何だろう?」 と思っていたので、さっそく飛び出す。

 「何を塗ってるんですか」と聞くと、怪訝な顔。しかし、「外国人なんで 興味があるんです」と説明すると、仕事の手を休めて「石灰ですよ。防虫の ためね」とニッコリ。仕事への誇りがその顔から見てとれた。

 きびしい気候の中で生育するたいせつな木々、その陰に貴重な労働がある。 (2005.12.11)



 ■2005年12月10日、 朝から小雨の一日。しかも冷たい雨だ。

 とはいえ、
10月の連休以来の雨。とにかく、こちらは雨が少ない。たとえ冷たくとも、 大地の恵みとなることをただただ願う。 (2005.12.10)



 ■2005年12月9日、

      防犯柵
窓に防犯柵がとりつけられた(画像)。

 そういえば大学のアパートと限らず、どこも、1階は全て、2階は部分的 にこの防犯柵が取り付けられている。

 青島でも同様だった。どうやら、中国の防犯体制はかなり厳格のようだ。 ドア一つとっても、重量感あるもので、二重にロックできる。ピッキングで 簡単に開くような代物ではない。

 僕の部屋は2階、しかも外国人ということで、優先的に設置してくれたと 思われる。しかし、鉄格子をはめられた窓から見る外は、悲しい。プレスリー の『監獄ロック』のメロディーが浮かぶ。 (2005.12.9)



 ■2005年12月8日、

       火鍋
さむい時には、鍋。それはここも変わらない。こちらでは、火鍋、砂鍋がある。

 学生にさそわれて、今晩は火鍋。直径40pもある大きな鍋を囲む。 仕切りがあって、辛い味付けとそうでないものと分かれている。

 白菜、青菜などの野菜、昆布、湯葉、肉……。10本の手が一斉に鍋に 伸びて、湯気のむこうににこやかな顔がかすむ。おいしさは、人とともに 味わうものだと痛感。

 お腹が満たされると、話題は恋愛のことへ。ボーイフレンドがいる人、 いない人、でもみんな堅実さの一点で共通していた。 (2005.12.8)



 ■2005年12月7日、 さむい。晴天がつづくが、気温があがらない。

 新聞によると、今週初めから日々、5℃〜−5℃、4℃〜−4℃といった 状態。この淮安は、緯度的には高知とかわらぬのに、大陸のせいか冷え込む。

 寒い、というと思い起こすのは、物体X。物体というより素材といった ほうがふさわしいかもしれない。粉末状で、いかなるものに対してもよく 溶ける。特筆すべきことは、吸温性が並外れていて、その上、吐出できる という点である。即ち、その時の暖気(冷気)を吸収、6ヵ月後に吐出する のである。

 よってこの素材Xは、断熱材・断冷材といったものを遥かに越えた 効用を有する。この素材を使用した家屋は、寒暖をいとも簡単に乗り越え られるのである。

 残念なのは、この素材、未だアイディア段階であるが故に、特許・実用新案 等取得するに至っていないのみならず、未だ発見に至っていない点である。 しかし、想像力やアイディアが世界を変えると信ずる。ここに広くこの アイディアを世間に公開し、開発者の登場を待つものである。 (2005.12.7)



 ■2005年12月6日、

    『大長今』の悪役
『大長今』DVDを見終える。

 この韓国ドラマ、NHK・BSで『宮廷女官・チャングムの誓い』の題名 で(再)放送中とのこと。眉目秀麗の女優は、映画『JSA』に出ていた イ・ヨンエだということも知った。

 宮廷での陰謀がハイライトとあって、要は悪役。この悪役がうまい。 一睨みするだけで周囲の空気を凍てつかせるほどの、とてつもない存在感を 発揮している(画像)。

 復讐、それが人間としての気高さ、つまりヒューマニズムに収束していく 点、 『モンテクリスト伯』と相似し、負けず劣らずの第一級ドラマに仕上が っている。倭寇、明国の使者なども配置、エンターテイナー性も申し分ない。 (2005.12.6)



 ■2005年12月5日、 今朝は格段と冷え込んだ。天気は快晴。

 はじめてパッチ・セーターを着込むが、なかなか自転車と一体になれない。

 でも、
サイクルメーター6000q台へ。この間、転倒一回、電動自転車との衝突一回、といってもどれもたいしたことなかった。 ゆっくり、そしてはやく走ること、それがコツであるように思う。 (2005.12.5)



 ■2005年12月4日、

       GP
快晴。

 青々とした空に自然と目が向く。と、学院アパート群の屋上にアンテナ があるのに気づく。どう見てもGP(グランドプレーン)Wスタック の二段。

 こちらのテレビは有線。よってアンテナの類はまずない。長さは1m弱と いったところ。日本の防災無線GPとトントンのサイズ。といって、防災 無線自体みかけたことはないし、それにエレメントも多すぎる。1/2λ なら、70MHz前後に同調しているように思われるが……。

 とはいえ、澄みきった空に向かって屹立するアンテナの姿はうつくしい。 なにものにも負けぬ断固とした意志すら感じさせる。 (2005.12.4)



 ■2005年12月3日、

      淮漣路
黙々と走りたくなった。

 曇天。でも、どうにも押さえがたい気持が自転車にまたがらせる。 めざすは、漣水、淮安の北東30qにある小都市。昨年たずねた
古黄河東側のそのずっと先。

 淮安─漣水をつなぐ淮漣路は、せまく、そしてその両側には、ずっと農村が つづく。だがよく見ると、農村へ入る道が舗装されつつある(画像参照)。 徐々に農村も変わりつつあるのだろう。


      古黄河

   能仁寺・妙通塔
 たどり着いた漣水は、典型的な田舎の小都市の風情。あの古黄河も、 静かに静かに流れていた。

 遠くから見えていた仏塔は何だろう、と自転車を走らす。横に広がる農村 で、縦のものはすぐ目につくのだ。

 「能仁寺、原名は承天寺。高僧・婁道者が嬰児・宋仁宗の病を癒すため、 唐初に建てられた。能仁寺の妙通塔は、1023年、婁道者の舎利を安葬 するため勅建された。が、寺と塔は、1948年、戦火のため崩壊して しまった。漣水県政府は、漣水のシンボルとして能仁寺と妙通塔を再建する ことにした」という説明がある。

 おちついた時代には、文化的価値へのめくばりがされる。そう思いながら、 引き返してきた。ちょうど5時間、80qの自転車小旅行だった。 (2005.12.3)



 ■2005年12月2日、 日本語の先生方と夕食をともにする。

 ハルピンから、吉林から、河南省安陽から……といった風に出身地が多様、 そして距離的に遠いという点が、なによりも中国を感じさせられる。

 みんな若い20代。ぼくも精神年齢20代。ということで、話がはずまない わけはない。学生のことから、「東男に京女」とか、京劇は魅力がないと いった話まで、あれやこれやと。

 面白かったのは、河南省出身の先生が「京劇はあんまり面白くないんです が、豫劇にはひきつけられるんです」と言った時に、他の先生が「豫劇はいい ですね。私もちょっと歌えます」と合いの手を入れたこと。

 豫劇は河南省の伝統的な地方劇。京劇にはない何かが地方劇にはあるのだ ろうか。

 ぼく以外に男性は1人、あとはみな女性の先生。雰囲気とビールに飲まれ てしまった。 (2005.12.2)



 ■2005年12月1日、 これまでお世話になった サイトがHP業務を閉じるということで、頭が痛かった。

 実は、夏休みに東京で光ケーブルの会社と契約、HP付だということで、 大丈夫だと思って戻ってきたのだった。ところが、どうにも自分のHPへの アップロードができない。しかも、その会社のホームページには、メール アドレスも記載されず、ただ「0120」の電話のみ。

 しかし、海外のここからは0120……には電話できない。9月からずっと このために頭が痛かった。その会社、堀江某のようにネットでのして、最近 の企業買収さわぎでも名前があがっているところ。

 苦労して、なんとかメール先を探し、事情を訴えたところ、「大変申し訳 ありませんが、海外ローミングサービスは現在行っておりません」という 返事。どうやら海外からのHPアップロードはできないということなの だろうが、「ローミング」とは何という日本語か?

 やむなく、若い友人にメール。すると二つ返事でOK。で、めでたく ここに移動することができた。いやはや、大手のネット業者は当てに できない。 (2005.12.1)



 ■2005年11月26日、

      『大長今』
韓国テレビドラマ『大長今』のDVDを購入し、見はじめる。

 この題名は中国語。宮廷の御膳厨房で活躍した長今という実話の宮女を ドラマ化したもの。しかし、
『頑張れ!クムスン』と同じ時間にTV放映されていたため、見れないで いた。

 画像のように、清楚にして眉目秀麗の女性が演じている。合計80時間 くらいと思われる長い長いドラマのまだまだ初めで、この主人公は登場して いない。

 しかし、感じるところは多かった。宮廷といっても、中国のそれのように 巨大ではなく、とてもこじんまりしている。しかも、背景の山と緑が奈良 を思わせる。それに、渡し舟の櫂は中国式ではなく、伝馬船のそれ。

 着物はチョゴリ、話す言葉は(吹き替えで)中国語、でもそれらを含めて 飛鳥を思い浮かべた。 (2005.11.26)



 ■2005年11月25日、

      新図書館
「死刑制度をめぐる模擬法廷」開催を知らせる立て看をみかける。

 副題は「法治・人権」とあり、法学部主催、著名教授を呼んでの授業外の 催し。こういう題のつけ方からみて死刑制度を見直そうという視点がある ことは明らか。法学分野での成熟が感じられ、のぞいてみたい──と思った けれど残念、数日前に終わったものだった。

 深秋ということもあるのか、このような学部を超えて授業外に催される 講演会・パネルディスカッションがよく行われている。北京大学の教授を 招いて「最近のロシア文学」という講演会もあった。だが、これも知るのが 遅れ、のぞけなかった。

 そんな反省から今日は、じっくり立て看や掲示を見てみる。と、この9月 卒業生のアピールに眼がはりついた。

 「蘇北(江蘇省北部)の教育環境は遅れている。遅れたところこそ若い我々 を必要としている。次の世代を育てる教育は、命。底辺から変えていこう」 といった趣旨。

 おもわず、「人民の中へ!」というナロードニキを思い浮かべた。功利的 なエゴイスティックな我利我利亡者が跳梁跋扈している昨今、失われてしま ったのはこの考えではないか、と。

 署名は「党員有志」。
学生党員には、このような人たちもいると知り、認識を新たにした。 (2005.11.25)



 ■2005年11月24日、

     鈴掛けの木
朝から快晴。

 残念ながら、ここでは紅葉はほとんどみられない。樹木が少ないせいも あって、植えられているのは常緑樹がほとんど。

 それでも、学内の鈴掛け(プラタナス)が黄葉化と落葉で、冬の到来を 告げている。10mもの大木、下から見上げると木全体で青空を吸い込んで いるように見える。 (2005.11.24)



 ■2005年11月23日、 午前中はまた霞、午後になってやっと晴れ曇りになる。

 授業で「高きを望んではいけない」という文が出てきて「高き」の説明を しなければいけなくなった。文語がチラリとのぞくのも日本語の特徴。

 杜甫の七律『登高』を例にする。 「とうこう」と音読するのが普通ですけど、「高きに登る」と訓読しても いいのです、という風に。

 ついでに、最初の「風急天高猿嘯哀 渚清沙白鳥飛廻」 を板書して、日本人はこんな風に読んできたのです、と説明。

 授業を終えてきて、思った。この詩は、
   無辺落木蕭蕭下  不尽長江滾滾来
   万里悲秋常作客  百年多病独登台
   艱難苦恨繁霜鬢  潦倒新停濁酒杯

 と続く。

 この「万里悲秋常作客」のフレーズが、チャイコフスキーの『悲愴』 最終楽章を思い起こさせるのだ。この部分、日本語の訓読では伝わらないが、 中国語の音では、さびしさを心の底からかきたてるものになっている。この 詩を朗読するなら、ここで感情移入の程度はひときわ高くなるだろう。

 この部分、『悲愴』がいったん第三楽章で終わったかのようでいて、最終 の第四楽章でバイオリンが悲しく問い返す、そのバイオリンの響きそっくり なのだ。

 秋も深まってきた。 (2005.11.23)



 ■2005年11月22日、 私の姓は日本語でどう読むんですか?

 外一面、霞がおおっている朝、教室で学生に聞かれる。彼女の姓は、 中国語表記では「庄」。しかし、同じ中国語表記でも繁体字では「莊」で、 日本漢字の「荘」につながる。でも、日本漢字にも「庄」はある。

 本来は同一の漢字。それが、歴史的変遷で表記が分かれ、なおかつ 異体字もからんだりする。これがやっかい。

 日本語では、「ショウ」というのが古い音で、「ソウ」と読むのが新しい 音です、と答える。すると、「中国の古代思想家の庄子の場合は、ショウで すか、ソウですか」と聞かれた。

 「ショウ」は呉音、「ソウ」は漢音のつもりで答えたのだけれど、言われて みれば、荘子は「ソウシ」、ショウシではない。すると、荘子が日本に入って 来たのは仏典より遅れていたことになる。

 午後になり霞は消え、いくらか視界はひろがったけれど、まだまだ言葉の 世界は闇だ。 (2005.11.22)



 ■2005年11月20日、

       鉢池山
鉢池山は、由緒ある地だった。

 天気につられて、市南東部を流す。鉢池山公園では、その紹介に吸い込まれた。

 周の霊王の太子・王子喬は、嵩山の浮丘公に道を学ぶ。道が成ってから、 淮水を下り、幽遠閑曠たる鉢池山丘陵に煉丹殿を築き、「丹井」を掘った。
 丹薬完成後、鶏犬を飼う。と、鶏犬、丹薬をたべ、鳳凰と麒麟になり、 王子喬、それにまたがり、天高く去っていった。

 超越的なエピソード。う〜ん、王子喬って何者?と考えさせられる。 そもそもこの鉢池山、「盤紓凹曲、形若鉢盂」という形から名づけられ、 唐代の杜光庭が『洞天福地』で道教72福地の一つに数えたという。そして、 王子喬と鉢池山を『淮陰書林』という詩の中ではじめて関連づけたのが、 李白だとのこと。

 後、明代から清初にかけて、一帯は景勝地であったが、1774年の黄河 決壊によって平地になってしまったとも書かれている。


    時刻表@

    時刻表A
 見過ごしていた自分が愚かだった。ひと回り丁度5キロの広い公園となって、 今、歴史の中の地として再建されているというのに。

 大きな収穫がもう一つあった。淮安火車站へ行って見ると、雰囲気が一新。去年とはうって 変わって、駅前がにぎやかになっている。

 北は、北京はもちろんハルピンまで、西は蘭州まで、南は成都まで、 直通列車が7月1日から走っていたのだ。変化の速さに驚いた。 (2005.11.20)



 ■2005年11月19日、 女子バレーWGC杯、日・中戦を観る。

 ゲーム時間帯のせいか、これまで15日の対ポーランド戦、16日の韓国戦、 18日のブラジル戦と日本チームの活躍はいつもゴールデンタイムに生中継 されてきた。

 画像は日本からのもののようで、どの試合も日本チーム中心に放映。 大山の姿に心を奪われた。闘う女性、その姿はニキータを思い起こさせる ものだ。対照的なのが、木村。お嬢さんのような物腰でいて、しかし、 クロスのスパイクを上手に決める。

 若い韓国チームで光るのは、17歳のKIM。細身なのに高い打点から スパイクを打つ。その笑顔もいい。

 真剣な眼。ほころぶ笑み。くやしそうな顔。どの試合も一篇の良質なドラマ のような興奮をあたえてくれた。

 しかし、あの館内放送と応援はいただけない。興ざめだ。ディスコなみの 乗りで何語ともつかぬ奇声を発し、「ニッポン」コールを煽る男の館内放送。 それに呼応する黄色の応援バット群。

 まるで全体主義国家だ。 (2005.11.19)



 ■2005年11月18日、

       耳かき
耳がかゆい。

 むろん、こちらにも耳かきはある。だが、手元にあるのは画像のもの。 下の単三電池から分かるように短くて、鋼鉄製。穴が開いているので、ホルダー にカギと一緒に入れてベルトに吊るしている男性もいる。

 携帯性にすぐれているということは、しかし、耳かきの機能そのものとは 別物。寒くなるにつれて、鋼鉄製のマイナス面が立ち現れてくる。冷たいのだ。

 それに、鋼鉄製であるために、耳は、耳かきに合わせなければいけない宿命 にある。買ってきた革靴を、足に慣らすというふうにはいかない。

 あの竹製のものがなつかしい。耳に合うように削ることも自在、使っている うちに自然と不要な角がとれて耳に合ってくる。せっかく
竹の文化がありながら、もったいない。

 掻いてもかいても、耳はかゆい。耳を合わせなければいけないのだろうか。 (2005.11.18)



 ■2005年11月17日、 そんなばかな!豆乳1ℓが11元(160円)なんて。

 1元のものが、11元となっているのだ。「しようがない」「まっいいか」 とも思うが、「たたかわわなくっちゃ」という気持がムクムクとわいてきて、 またスーパーへともどる。

 スーパーというと語弊がある。かなり大きいのだ。"TIMES extra"と英語 表記される正式名称「時代超級購物中心」。江蘇省だけで13のチェーン店 があり、食料品・衣料品から本・家電・自転車までほとんどのものを売って いる。昨日から今月末まで、VIPカードやSONYのハンディカム DCR-DVD602 などが当たる特売セール中。

 日本と異なるのは、中に品物を持ち込めないこと。例えば、読みかけの 本を手に持っていたとすれば、入口そばの保管所か無料ロッカーに預けなく ては入れない。買う物を入れるものも違う。日本同様手持ちカゴもあるが、 もっと大きい(1.2×0.7×1m)の手押しワゴンがある。小さな 子を乗せられるようになっていて、お母さんにやさしい。

 どちらも優れたシステムだと思う。

 さて、闘う心でいざ「退貨処」へ。怒髪天を衝くいきおいでレシートを 見せると、係の小姐、「ごめんなさい、バーコードの読み取りミスでした」 と、これまたきれいなやさしい声で手際よく処理してくれた。このシステムも なかなかのものだし、なによりこういったトラブルに習熟していることが 気持よかった。 (2005.11.17)



 ■2005年11月16日、

   グラウンドでスケッチ
掲示板を見ていたら、「予備党員決定」という記事があった。

 どうやら「申請→予備党員→正式党員」というステップをふむようだ。 各クラスから2・3名の氏名と活動経歴が掲載され、意見等ある人はどこどこ まで連絡をと電話番号なども記されている。これは、開かれた党をめざして のことなのだろう。

 クラス委員、学生会幹部経験者の、いわゆる「いい学生」が選ばれている。 「反体制」が「体制」となったのだから当然のこと──と納得しつつも、もう 一つすっきりしない。クラスや学生会の延長に党があるのだろうか。

 載っていた葉○○さんと帰りにすれ違う。「見たよ。予備党員になった んだね」と声をかけると、満面の笑み。つられて「おめでとう」と言った けど、何がどうめでたいのか。そういえば、以前、
昼食のとき話した学生の名前は なかった。

 ※画像はグランドでスケッチする美術専攻の学生たち。文章とは関係 ありません。(グランドの向こうは、アパートとホテル) (2005.11.16)



 ■2005年11月15日、 今日の二年生の「聞き取り」の授業は、「日本語に見る和の精神」という もの。内容は以下の通り。

 聖徳太子17条憲法の第1条には「和」の大切さが強調され、「和」の理念 は日本人の生活の原則となっています。

 日本人は会話をしながら、お互いに気持が一致していることを喜びます。そのために、日本人は「私」をはっきりさせて、相手と向かい合って親しく話し合っている最中に「いや、そうではありません」とか、「いや、おっしゃった意見に反対です」とか、「いいえ、それは違います。私はこう聞いています」というように、はっきりと「No」という「反対」の意思表示をすることはあまりありません。

 日本人同士の会話では、最後まで言い切らない婉曲な表現が多く用いられます。例えば、「あのう、ここは禁煙なんですけど……」というふうに、自分の意見や感想などをはっきり示さず、それを相手に察してもらおうと、途中で口を閉ざしてしまいます。

 また日本社会では、直接な対立をできるだけ避けようということから、はっきりと断らない傾向があります。その際によく使われる「結構です」という言葉は、もともと、十分で満足であるという意味です。一方、「もう結構です」というと、相手から十分なもてなしを受けて、「これ以上は不必要です」の意味になります。

 このように「和」を求める意識が習慣として定着しているために、日本人の言葉は曖昧なものになりがちで、「……じゃないんでしょうか」「……と言えなくもないが……」「ご意見はごもっともですが……」などの表現がよく使われます。時には、日本人同士でも判断に苦しむこともありますが、その場合には、話し手の表情を見たり、話の全体的な流れから真意を推測するしかありません。

 日本語は柔軟な言語で、使う人によって、論理的な方向へと拡大することも できるし、曖昧に使うこともできる。それに、だいたい「連帯は求めても、和 なんてイヤ」と考えるので、この文章に賛成できない。そして、その 後の「内容とあっていれば○、違っていれば×をつけなさい」という設問に、

 日本人がものをはっきり言わないのは、自分の意見主張をごまかしたいから です。

 とあるのには参った。この文章から言えば、×。しかし、
小泉の日本語使用法から見れば、○。 (2005.11.15)



 ■2005年11月14日、 土豆がおいしい。

 今日のように朝から寒い北風が吹いている日、「土豆」のほくほくさほど 身体を芯からいやしてくれるものはない。

 「土豆」、日本語ではジャガイモ、馬鈴薯。「馬鈴薯」は中国語からの もの。でも、ふつうに呼ばれている「土豆」がいい。電子レンジで4分間 チン、そして、ほおばれる大地の恵み。 (2005.11.14)



 ■2005年11月13日、 曇天の日曜日、新聞『揚子晩報』に、「第3次単身ブームが中国を 襲う!」という記事を見つけた。

 今日、結婚しない若者が増加している。それは過去二回の単身ブームと、 決定的に異なる質をもっている。適齢期になったら結婚という伝統的考え 自体がくずれ、シングルがすでに選択肢の一つになっている──という指摘だ。

 「なんで結婚するのかしら。一人でいるよりいいから結婚するんでしょ」 28歳になる曹さんは、もし気に入った男と出会わなければシングルを貫く と断言。

 女性のホワイトカラー化とともに、優秀な女性ほど相手を見つけにくく なり、また伝統的な家観念がプレッシャーになっているという。また、 ベビーシッターなどの仕事で農村から出稼ぎに来ている女性はどうかと いえば、都会化された意識を持ち、農村の男性や同じ出稼ぎ男性に目は向かず、 といって、都市の男性からは見向きもされない傾向にあるという。

 急速に進む都市化は、個の確立を促し、ライフスタイルも変える。むろん、 広大な農村をかかえている中国、同時並行的に均質的に一挙に進むとは思え ない。さまざまな多様性とアンバランスさの中で、人間のあり方が変わって いくのだろう。その時、家の意識、家父長制はどうなっていくのか。

 もうひとつ興味を抱いたのは、となりの解説記事「新中国、前二回の単身 危機」。こちらもまた興味深い。

 「第1次」は、1950〜53年。50年5月に発布された初の『婚姻法』 にともない、全国的に離婚が増加。かなりの人が父母に決められた婚姻から 自由になり、1953年の離婚率(その一年間の離婚数と結婚数との比)は 約53%にものぼった。ちなみに、現在離婚が多いと言われるが、当時ほど ではなく、2002年の北京市でも離婚率50.9%とのこと。

 「第2次」は、1970年〜85年。
「上山下郷」でたくさんの青年が 地方農村へと向かい、そして戻った。男性は、その地の女性と結ばれたケース が多かったが、女性は土地の男性を受け入れがたく、嫁ごうとしなかった人 が多かったとのこと。また出身や政治的背景が問題にされた当時、結婚その ものがたいへん難しかった。現在なおシングルのままの人もいるとのこと。 (2005.11.13)



 ■2005年11月12日、

       胯下橋

    胯下橋奥の路地
秋晴れ。まぶしい陽射しの中、
楚州へ。そして、ついに韓信股くぐりの地を 探し当てた。

 「胯下橋」がそれ。説明には、「胯下橋牌坊は、当時韓信が股くぐりの 辱めを受けた処。明代に建てられ、後いくども修理された。高さ8米、 幅4米、木質」とある。1978年に修築、市の文物保護単位になっている。

 牌坊の奥の路地をのぞいてみると、庶民生活の臭いがぷんぷん。「おい お前、ちょっと生意気そうな自転車乗ってるじゃねえか。ほんとに度胸が あるんなら、俺の股をくぐってみな!」とからんでくるお兄さんはいない けど、このごちゃごちゃした生活臭は、きっと2000年前もそうだったの だろう。

 楚州は比較的古い街並みが残り、庶民生活の臭いがただよっている。この街 を自転車で流すと、気分が落ち着く。 (2005.11.12)



 ■2005年11月11日、 学食で「鍋貼ル」を見つけた。テイクオフにしてもらい、部屋へと急ぐ。

 日本の焼餃子によく似たのがこの「鍋貼ル」。熱いビニール袋から いい香りをさせている。一つ二つ食べてもいいだろうと、暗がりの中で口に 入れる。熱い皮が裂け、中の具が口の中にひろがる。その瞬間、焼けた皮の 香ばしさと油が口全体で感じられる。その三位一体、いや正確には四位一体 こそ鍋貼ルの命。

 焼餃子との違いはどこか。それは熱い皮が裂けたその一瞬の緊張度が鍋貼ル にはあって焼餃子にはない、という点だろう。そう思いつつ、熱い皮が破れる 一瞬をつかむべく、三つめ、四つめ、……。

 部屋へ戻った時には、半分以上の鍋貼ルが腹の中に納まっていた。 (2005.11.11)



 ■2005年11月9日、 昨日から霞が街をおおいつくしている。ビールと一緒に買ってきた新聞 『揚子晩報』をながめていると、「85歳老人、監獄めざして窃盗?」 という記事が眼についた。

 7月4日、広州駅で携帯電話を盗み、10月26日、窃盗罪で一年の刑に 処された老人の処遇をめぐって論議がまきおこっているという記事だ。この お年寄りの動機がなにしろ「飯を食うため監獄に行きたくてしたこと」なの だから、メディア的角度からいえば、ほっておけない。

 湖南省株州市の出身、1947年に広州に来てからずっと廃品回収と物乞い をし、一人身のまま定職も持たずにきたという。彼をめぐって起こっている というその議論は面白い。

 ・裁判官は、「坐牢求めての盗みは少ない。全国最年長のこそ泥だろう。国が 動き、もし株州に戸籍があるなら、そこの福祉施設で救うべき」とのコメント。
 ・警察側は、「こういった流れ者(「老江湖」と表現)の話は信じられない。 半世紀も広州にいてなぜ広東語もわからないんだ」
 ・広州社会科学院研究員は「彼が新中国成立前広州に来たとしたら、戸籍は あるまい。特例として国は認めるべきだ」……。

 しかし、僕が不思議に思い、また好奇心をかりたてられるのは、こんな人 が本当にいたのだろうか、という点だ。その点、警察のコメントは鋭い。が、 「嘘」を暴きたてるに急で対策がない。一方、裁判官・社会科学院研究員 は、その過去よりも彼の年齢と現実を問題にしている。

 「天網恢恢……」という言葉があるけれども、このお年寄りが彼自身の言葉 通り、天網を60年もくぐりぬけていたとしたら──と考えると、人間の 可能性は計り知れないと思った。 (2005.11.9)



 ■2005年11月8日、 仕事をしながら何かVCDはないかと引き出しを探して、『猟奇的な彼女』 (中国題名『野蛮師姉』)を見つけた。

 これは日本でもヒットした韓国映画。型破りの女性が輝いていた。引き出し にあったのは、その中国語版。

 しかし、中国語版といっても、普通語と広東語の二ヶ国語バージョン。 おもしろいことに、新CDラジカセの左のスピーカーからは普通語が、 そして右からは広東語が流れてくる。

 むろんこのCDラジカセ、本体とは別にリモコンがあって、どちらかに固定 できるのだけど、そのまま聞いていると同じ音量なのに、広東語のほうが 耳につく。まったく分からぬ広東語のほうが、ちょっとは分かる普通語より 耳に訴えかけてくるのが面白かった。 (2005.11.8)



 ■2005年11月7日、 くだんの新CDラジカセ、DVDは不対応だがVCDは大丈夫(TVにも 接続できる)なので、『サウンド・オブ・ミュージック』をバックグラウンド・ ミュージックとしゃれてみた。

 何を隠そう『サウンド・オブ・ミュージック』は、中学1年生で観て以来、 映画館で通算7回みたもの。だからなぜか、この淮安の部屋にもVCDが 2つあった。

 画像ぬきの
『サウンド・オブ・ミュージック』も十分に楽しめる。そして、 画像がないことによって、広がる世界もまた別にある。

 彼らは、ファシズムに対してどうしたのか、という点だ。1938年、 オーストリアに侵攻したナチ・ドイツ。9人の家族はスイス(だと思う) へと逃れる。これが、物語の外枠。

 「逃亡者」なのか。そう見るのは、今なお残る日本人的な島国意識。 そういえば、かつて野坂昭如氏が(外国がもし侵略してきたらどうしますか、 という問に)「おれは逃げるな」といったふうに答えたことがあった。 「卑怯者!非国民!」といったくだらぬレッテルなぞ気にしない彼らしさだった。

 国境よりも、尊い人間の価値。 (2005.11.7)



 ■2005年11月6日、

   新CDラジカセ
雨の昨日から打って変わって快晴。なのに、風邪をひいて喉は痛く頭は がんがん。しかも、昨日購入したCDラジカセはMP3非対応と分かり がっかり。

 これではテレサテンは聞けても、仕事では使えない。で、意を決して交換 してもらいに行く。

 ここのショッピングセンターには、いずれも「退貨処」があり、そこへ 持っていって事情を話す。係の若い女性の説明通りにすると、差額を払って わけなく別のMP3対応のものに交換できた。

 係の女性の愛想のよさと手際のよさに感激。「外人なんであんまり 分からないです」と言うと、懇切丁寧に話してくれた。その愛くるしさが 忘れられない。 (2005.11.6)



 ■2005年11月5日、 小雨の一日。CDラジカセを買う。最近、中国でも出版される音声教材は カセットからCDに移行しつつあるからだ。

 購入したのは250元(約3500円)。中国・雷登というメーカー製。 同機種では、PHILIPS が最も高額の800元、日本のSANYO は300元くらい の低額路線で勝負を挑んでいる。全般に「安い!」と思うむきもあるだろうが、 所得と物価の壁がある。以前から主張しているように、ビール大瓶何本に相当 するか、という庶民生活の実態に即した「ビール本位制」で判断する といいだろう。大瓶ビール1本、2.4元、250元のCDラジカセは実に ビール104本相当。

 ……ということで、テレサテンのはずむ声が、その高価格にふさわしく 響いている。実は購入した真の目的は、こちらかも。 (2005.11.5)



 ■2005年11月3日、

   この木の名は?

   クローズアップ
秋を身体全体で感じる。爽やかさは人間の探知能力を高めるのだろうか。 そこで気になったのは、この木。

 これは道路で撮影したもの。街路樹としてずらっと植えられている。 北校区のキャンパスにもたくさんあり、きっと生命力の強い木なのだろう。

 木の上側には濃いピンク色の実のようなものがたくさんついている。 「酸漿(ほおずき)」かな、と思って下に落ちた実を開けてみたが、それでは なさそうな感じがする。ホオズキを鳴らして遊んだ記憶もはるか彼方に 消えてしまっている。

 いったい何の木なんだろう。秋はたくさんの疑問を投げかけてくる。 (2005.11.3)



 ■2005年11月2日、瑪麗蓮・夢露」という語を新聞で見かけた。う〜ん、マリリン ・モンロー。「夢裸」としないところがいい、と思う。漢語(中国語)の 造語能力には、いつも敬服する。

 その昔、コカコーラを「可口可楽(口にすると楽しいよ、といった意)」 というと知って、にっこり。最近は、ミニスカートとEメールが、それぞれ 「迷你裙(あなたを迷わせるスカート、といった意)」、「伊妹ル (彼・彼女の妹、といった意」と知ってますますニッコリ。

 中国では、外来語は基本的に音に合わせて中国語で表現する。その時、 中国語での意味を付与できるところに遊び心をくすぐるミソがある。

 この点、日本語では外来語は音そのままのカタカナ表記、中国語のように 「思わずニッコリ!」という楽しさには欠けている。とはいえ、外国語を ふんだんに取り入れ、「ナウい」など自在な表現が可能であるという点で、 日本語には柔軟であるという別の特徴がある。

 だが、最近、この日本語の特質を悪用する人間がどんどん増えている。 「敗戦」を「終戦」と言い換えたのは60年前。今は「改悪」を「改革」 と言い換え、今や「憲法改悪」を、「憲法改定」ないし「憲法改正」 と言い換えそうな気配だ。(マスメディアはどれを使うのか?)

 日本語の柔軟さは、平仮名を発明した紫式部など平安時代の女性の慧眼 がもたらしたものだ。それをどこまで壊そうとして止まないのか。 (2005.11.2)



 ■2005年11月1日、 「なぜ?どうして?」 自転車通勤となり二ヶ月が経過、朝いつもハラハラしつつ、「???」 という気持で通う。


   淮海北路の今日
 画像のように、車道とは別にある側道を毎日走る。すべて舗装され、 東京以上に路幅もゆったりしている。しかし、危険が一杯。歩行者、自転車 リヤカー、自転車タクシー、そして、忍者のごとく音もなく抜かしていく あの電動自転車もある。しかも、横並びになって並走するのもあれば、 逆走してくるのも、また、横道 から突入してくるのもある。

 ならば流れにまかして走ればいい──と「大陸的」発想にこだわったこと もあった。しかし……、前や横を走る自転車の揺らめく走行、そして思わぬ 伏兵、飛んでくる痰唾があるのだ。

 僕は、石原慎太郎 のような蔑視と差別で自分を浮上させようとする人間を憎む。だから、 正直に告白しよう。僕もよく自転車から痰や唾を吐く。だが問題は、吐き方、 つまり方法だ。その方法論の相違に今なおマッチできないでいる。それなりの 合図を見て取れないのだろう。今後の詳細なる考察に待つほかない。

 しかし、どうであれ自転車での通勤を通して思ったこと。この国では 「なんでもあり」なのだ。そう言うと誤解を招くかもしれないので、言い 直すと、ものすごい多様性に富んでいるということだ。孫文がかつて嘆いた 「中国人は砂だ。ひとつになったと思うとすぐ、砂のようにバラバラに なってしまう」といった言葉を思い出す。

 これは中国統一をめざした志からでた言葉だ。その志から見れば否定面 だが、角度を変えてみれば、人的資源の多様性を物語った言葉だとも言える。

 循々と従い、本当はバラバラなのに形だけの一体感を求めている彼の日本 の姿が、自転車通勤から浮き上がってくる。 (2005.11.1)



 ■2005年10月31日、 なんで、あんなに残してしまうのだろう。学食で昼食をとり、気になる。

 しかも、ごはんだけではない。かなりの料理が残ったままではないか。 美食家ではない粗食家の僕は、たまたまレストランへ行っても、いつも 食べ残しに眼が行く。

 もしかして、「一人っ子政策」の中で甘やかされて育った若者だけに 限ったものではなく、食についておおらかな中国人気質がそうさせるのだ ろうか。

 昨年7月までいた青島では、年輩の先生から「1960年、61年 の大災害の時は何でも食べました。木の幹も」と伺ったことがある。

 もったいない、食べられるだけを頼めばいいのに。そう思って学生食堂を 後にした。 (2005.10.31)



 ■2005年10月28日、

     名典珈琲
たまには、ということで「名典珈琲」に行く。

 ここは、台湾資本のチェーン店で、カレーライス(めいたもの)がある。 同じ台湾のチェーン店「上田コーヒー」も、もう少し遠く徒歩15分ほど の所にあるのだが、こちらはそばの5分。

 ビールとカレーライスをとって、のんびり。ビートルズナンバーが静かに ムードをかりたてる。

 しかし、そこに、あちらで携帯の声。中年女性が大声で電話をしている。 あぁ、はやくおわらないかなぁ──と思うが、話はながく、そして終わった

     上島コーヒー
と思ったら、また電話をかけ、そして、2通目、3通目……。電話をしに ここへ来ているかのよう。

 電話の声は、人に話しかける音量の倍以上だという。しかし、中国語、 それも女性の場合、3倍以上の感じがする。……ぼんやり思う。中国人女性の 声は一般に高いのではないか。そういえば、韓国の
チェ・ジウの生の声は、吹き替えの中国人声優の声はもちろん、彼女の 体型からイメージされる日本人女性以上に低い声だった。

 僕は、低い女性の声が好き。「黒板をチョークでキー!」の声はたまら ない。でも、あの 『頑張れ!クムスン』の主役女性の声優をやっていた陳紅さんの声は 高かったけど、とっても素敵だった……。声の高低は、魅力度と相関関係が あると決定的には言えないけれど、一般的には、中国人、日本人、韓国人 の順に低い声のようだ……。

 ぼんやりそんなことを思っていたけど、あちらの女性は、高くうるさい声 で、4通目、5通目の電話をしていて、もういたたまれなくなり、店を出た。 ビートルズの"AND I LOVE HER"を背に。 (2005.10.28)



 ■2005年10月27日、 "COFFEE LOVE" ではなく、"COFFEE FOLK"(中国名:珈琲人)がそれのようだ。

 ひき終わるの待ちながら、傍らの雑誌をめくる。すると、『日本人が 戦争責任を直視できない理由』という題名の記事が目につく。

 ドイツとの比較で論評し、核心は二つ。一つ、ドイツほどに自由・民主の 思想が普及していないこと。一つ、島国のため内向きの発想であること。

 たいした雑誌ではない。『どうダイエットするか』といった記事もある、 いたって通俗的なものだ。しかし、ケチをつけがたい。的確としかいえない。

 ひき終ったコーヒーは、マンダリン。500グラム、80元(約1100円)。 輸入物とあって高い。部屋へ帰って飲むと、モカとは違ってとても苦かった。 (2005.10.27)



 ■2005年10月26日、 なぜ間違いを消してしまうのだろう

 宿題チェックをしていてそう思った。中文日訳の問題で、その学生は、 熱心に予習し自分で解答を作っていたようだ。たまたま授業で余裕があった ので、モデル的にその問題の訳を紹介した。今、彼女の宿題ノートには、 僕の解答だけがきちんと書かれている。しかし、彼女の予習の軌跡は、 消された跡のみ残り、完全に消去されている。

 こちらの学生は、基本的に万年筆かボールペンを使用し、鉛筆・シャープ ペンは使用しない。ホワイト修正液もあるが、セロハンテープを使って、 とっても上手に修復する。その器用さには青島時代から脱帽していた。

 しかし、なぜ間違いを消してしまうのだろう。そういえば、こんなことも あった。日本語訳で間違いやすい点を紹介するため、わざと黒板に誤訳を 書いた時のことだ。みんなは、せっせと写す。そして「これは間違いです」 と言ったら、すごいブーイング! かわいいみんなの顔が一瞬にしてこわばった。

 あたりまえのことだが、解答は一例でしかない。大切なのは、自分の営み、 なぜ間違ったかを知ること。
文革記念館を主張した巴金の意図はここにあったのではないだろうか。

 そして思い出す。文革時代の中国メディアは、劉少奇の画像を消していた ことを。たとえば、1949年10月1日、毛沢東が天安門で高らかに新中国 成立を宣言した時に傍らにいた彼の姿は消されて、『北京週報』『人民中国』 『中国画報』に掲載されていた。

 むろん「実事求是(事実にそって真実を求める)」の今日、こんなことは ない。たとえば、テレビドラマで林彪は姿を現すことはないが、解放戦争時代 の人物として名前は何度も登場する。

 「間違い」については、しかし、「間違いだらけが人生さ」と思う僕は、 もう一つ述べざるをえない。「間違い」とされているものを検証せずして 「間違い」と決めつけることこそ間違いではないか、という点だ。もしかする と、「間違い」とされているものの中にだけ眠っている大いなる可能性が あるかもしれない、と思うからだ。 (2005.10.26)



 ■2005年10月25日、 「先生! ひさしぶり。会いたかったのよ」

 教育実習に行っていた4年生がキャンパスにもどってきた。昨年度、 第二外国語で担当した英語専攻の学生にやっと再会できたのだ。

 「わたし、先生やったんですよ、先生!」うれしさいっぱいの顔を眼に する、こんな楽しいことはない。しかし、「なのに先生、もう私たちを 担当してくれないんですね」

 ごめんね、僕にはどこを担当するかという権限はなくて、大学の決定に そってしかできないの──と言い訳するしかない。でも、慰めてくれる 彼女たち。

 「さよならだけが人生だ」という言葉は、ある意味では名言だ。しかし、 そんな人生はクズだ!と思った。 (2005.10.25)



 ■2005年10月23日、

10/20のCCTV-NEWSチャンネル
日本では靖国参拝で、中国では神舟6号のニュースで陰に隠れてしまったが、 巴金がその17日に亡くなった。

 今日の新聞・『揚子晩報』では、巴金の娘・李小林と甥の李致が文化欄の一面 に登場、庶民的な巴金の姿がクローズアップされている。巴金の小説『家』 に登場する長兄・覚新のモデル、李尭枚の息子・李致は、こんなふうに インタビューの最後に語っている。

 「叔父は、一貫して浪費に反対し、その故居の修復に反対していた。実の ところ、わたしはこの件についてどうにもこうにも矛盾した状況にある。 (巴金の故郷)成都市民から、あるいは(四川省文聯主席である私の)文藝 担当の立場から考えると、故居修復は意義あるもの。しかし、私は、彼の親族、 彼が反対した修復をするわけにはいかない」

 反権威的な巴金らしいエピソード。そういえば、文革収束後、すぐに 「文革記念館を建造すべきだ」と主張したのは彼だったのではないか。権威 の暴走、その権威を暴きさらすために、末代にわたって知らしむべき ものとしての記念館の主張、自由な精神とはいかなるものかをその時思った。

 若き日には、アメリカのザッコとバンデッティ擁護のため動いたという。 その海外に広がる活動について、友人が発掘し発表したことがあった。その はるか前の1970年代の銀座で、ロードショーの『死刑台のエレベーター』 という映画を僕は観ていた。不合理を暴く、という今ではもうありえない だろう良質のアメリカ映画だった。死刑台に向かうのがザッコとバンデッティ。 巴金が彼らの救援・支援活動に参与したという。友人からそれを聞いた時、 興奮した記憶がある。 (2005.10.23)



 ■2005年10月22日、 「やられた側は忘れ ない、忘れられない」と9月5日に書いたけれども、それは正確ではない。

 薄曇りの一日、日本のサイトワッチをしていて、「日本の化学兵器の 中国遺棄問題」を見つけた。その問題提起に敬服。

 かつてアメリカがイラクのフセイン退治に赴いた大義名分の一つが、 「化学兵器を使用し、なおかつ保有している」という理由だった。「日本国」 はそれに賛同し、協力した。その時、過去に化学兵器を使用したことがある アメリカと日本国が、自分たちの血に汚れた手を直視せず、侵略を正当化 する理由に掲げていることの破廉恥さを思った。

 「やられた側は忘れない、忘れられない」というのは、正確さを欠いている。 なぜならそれは過去ではなく、いまなお今日的問題なのだから。 (2005.10.22)



 ■2005年10月21日、 不思議なことに休みが近くなると天気がくずれる。

 そこで、せっせと準備。今は5科目担当なので、やってもやっても準備は 追いつかない。でその一つ、来週から入るくだんの
教科書、最初がなにしろ山崎正和の『劇的なる日本人』からの一節なのだ。

 30年以上前に書かれた評論。しかし、鋭い。これほどに鋭角な論理を 展開できながら、なぜアメリカのイラク侵略を彼は支持したのか?──と 思いつつ精読すれば、教科書の語彙脱落や誤字が目につき、がっかり。 さっそく、友人に確認のメールをした。 (2005.10.21)



 ■2005年10月20日、 韓国連続TVドラマ 『頑張れ!クムスン』が終わった。

 夜の10時から50分のドラマを土日も欠かさず毎日3本づつ放映、 いつも次回への思いをかりたてて幕切れとなるため、いやはや、睡眠時間 をずらしてまで観る毎日だった。

 若く、どこまでも純粋に、人のことを考えて生きようとする女性が 主人公。そのひたむきさに打たれ、いつのまにか、題名の「頑張れ!」 を叫びたくなる。彼女の前に立ちはだかるものは何か。女性の嫉妬、 そして、家、あの封建的な家秩序。

 『冬のソナタ』を初めとして、かなりの韓国TVドラマを見てきたが、 生きることを励ますドラマとして屈指のもの。また、「封建的家秩序」 への切り込みも他作品にはあまり見受けられなかった点だ。

 この地で購読者が多い新聞『揚子晩報』では、ヒットランクの1位に 入っていた。いったい、中国の人はどんな点に引きつけられているのだろう? (2005.10.20)



 ■2005年10月18日、 一人悶々としているのは柄ではない。天気につられて教科書のことで担当主任に話をしにいく。

 主任の部屋をさがしてウロウロ。すると顔なじみの英語の先生が声を かけてくれる。しかも、なんと彼がその主任!気のいい人で、すれ違う毎に きまって声をかけてくれる人だ。

 率直に質問した。「どんな経過だったんですか」僕の意見を受けて 早速、学生を招集、ていねいに2つの教科書を見比べ、僕が推薦したのは やさしすぎるという意見が大半だったとのこと。

 「その点なんです、問題は。あれは北京大学・清華大学の日本語専攻で 使ってるもので、やさしいなんてどうして言うのかな。語句や句型・文法 説明、それに練習問題もとてもていねいに作られているし。学生にそれほど の判断能力があるとは思えません。日本語の先生が決めたのなら納得できる んですが」

 すると、「お話、よく分かります。ただ、使用教科書によって大学が評価 されるという事情があり、先生推薦のは、あまり知られていないんです。 それに対して最終決定したものは、南開大学出版のもので著名なんですよ」

 よくある定番志向。そこで、「外見で決めるなんて!人間なら、何を着、 どこに住むかなんてことより、大切なのは何を考え何をするかですよね。 教科書で大切なのは、学生にとっていいものを選ぶことじゃありません?」 と切り返すと、苦しそう……。

 日本語専攻ができてまだ3年目という事情もあり、これからは中国人の 日本語の先生の意見を尊重するようにお願いします──と言って席を立った。 「貴重な意見ありがとうございます。気をつけて」とわざわざ部屋の外まで 送ってくれた。誠実な紳士的な対応だった。 (2005.10.18)



 ■2005年10月17日、 日本の首相が靖国参拝をしたというニュースをラジオで聞く。

 1945年まで日本軍国主義の支柱であり、今なお「大東亜戦争」肯定 論をとなえ、A級戦犯を祀っている一宗教法人を参拝することの意味は、 明確。しかも、参拝は「不戦の気持をこめて」行ったと言う。

 こういった非論理的行動には、論理的に対応できない。しかも、彼は説明 すらしない。ただ情緒的な賛同者ばかりが感激し、陶酔する。これは、 ファシズムではないか。

 この参拝で貶められたのは、日本人とその思考法だ。日本人とは、今に なってもこのように非論理的であり、よって彼らの言葉・日本語も非論理性 の体系(いや断片の集合)と思われても当然だ。

 言葉を軽視し思考を回避し、そして理性を失っていった、それが1930 年代、ファシズムの時代。 (2005.10.17)



 ■2005年10月15日、 昨日の方言に ついて、さっそくメールをいただいた。

 「上海や江蘇や浙江など呉方言地域では,古漢語の発音が残っているので日本語の数字の音読みに近い発音があります。音読みはそもそも中国語発音の日本語なまりなので当然ですよね。ただし文化伝来の歴史が長く時代によって伝わってきた音が違うので,現在の中国語発音とずれてしまっています。ちなみに呉方言辞典で6は Lo,2は Ni です。たぶん正確に書くと6はLokなんでしょうね。(一部修正)

 ありがとう。このささやかなページを見守ってくれて、すぐアドバイス してくれるほどうれしいことはありません。

 さて、そこで早速ビールを買いに、おばあさんの元に。「6」は、メールの 指摘通り「loku」より「lok」に近い発音。でも残念ながら、「2」は「Ni」では なく、普通語の「er」。おばあさんは、1から10までいきなり言い出す僕の顔を 見て、目を丸くしていた。 (2005.10.15)



 ■2005年10月14日、 ビールで、当たり!が出た。

 額はたいしたものではない。5角、つまり1元の半分だから、日本円で 7円。しかし、王冠にしっかり、「伍角」と記してあるのを見ると、 やった〜!と心はうきうき。なにかいいことが起きそうな予感がする。

 前にも記したように
さまざまのビールがここでは手に入る。しかし、それはスーパーでの話。 今は、もっぱら歩いて30秒の雑貨屋で購入する画像右の江蘇サントリー製 プリンスビール。スーパーより1角安い値段で、しかも空き瓶のデポジット をやっていて、2.5角で引き取ってくれる。だから結果的に、1本2.15 元と割安なのだ。

 しかも、この雑貨屋のおばあさん、方言がすごくて、「6」と いう数字を日本語とよく似た「loku」と発音する。日本語の「6」は もしかして、この辺りから届いた贈り物なのでは?と思って、おばあさんが 「6」を言うたびに抱きしめたくなる。 (2005.10.14)



 ■2005年10月13日、 どんよりと曇り、昨日まで続いた秋晴れも今日はおあづけ。曇天と呼応する わけでもないが、落ち込んだ気持になった。それは教科書が理由だ。

 ことのいきさつは、こうだ。これから入る予定になっている3年生の精読用 教科書が難しすぎる。日本で言えば、高3レベルかそれ以上。しかも注釈は ほとんどなく、練習問題も少ない。意を決して、学生のレベルに対応した別の 精読用教科書を提案した。

 結果として提案は却下された。それはそれでいい。問題は、どんなプロセス で却下されたかだ。日本語教師が検討したわけではない。なんと、教科書採択 担当主任(非日本語教師)が学生たちの意見を聞いて、前から予定され ている教科書に決ったというのだ。学生たちの主な意見は、僕が提案した ものは「やさしすぎる」だったとのこと。

 プロの眼を信じずエセ民主の手法に頼るやり方は、かつて述べた
授業評価表なるもの と同じだ。「やさしすぎる」と評価した学生たちは、エセ民主の最大の 被害者になることを分かっていたのだろうか。

 そして、もう一つ分かった深刻な問題がある。中国人の日本語教師に、 教科書決定の権限がないということだ。そもそもの難解だと僕が思った 教科書を決める過程で、意見の聴取すらないままに、日本語教育と無縁の 教科書採択担当主任が決定したとのこと。

 プロである現場教師の意見をなぜ尊重しないのか?思えば、これは日本の 公立学校の教科書採択の手法と同様だ。しかも、彼の地ではエセ民主さえない。 (2005.10.13)



 ■2005年10月12日、 5日前の何という鳥? という疑問に、早速メールをいただいた。

 「リヤカーに乗っていたのはたぶん鵜飼の鵜ですよ。江南でも鵜飼 は結構見られます」

 なるほど、鷲や鷹だったらあんなふうにおとなしく坐っていないだろうし。 でも鵜だとすると、魚を捕まえさせるのかな、どんな魚を……などと新たな 疑問が。

 簡単なことだ。直接、きいてみればよかったじゃないか。──そういう声が 聞こえてくる。外にいるだけで、中に入ろうとしない。もったいないことだ。 ベランダ・サンルーム で、秋の日差しにうっとりしながら、そう思った。メールありがとう。 (2005.10.12)



 ■2005年10月10日、 皮肉なことに国慶節連休明けの8日からずっと快晴の日々。空気もカラッ として、湿気が多かった日々を一掃。とはいえ、今日は、 イベントの付けがあって、朝一番から夜遅くまで授業で、フーッ。 3往復もしなければいけないのだ。

 でも夜の3往復目は、スクールバス。バスから見る街路は昼の自転車から 見るそれとは、まったくの別物。街路灯が照らすセピア色の路。 道行く人々、垣間見られる店や家々。すべては、神秘性をおびているではないか。

 このセピア色の光景は、……そう、1978年の上海・南京東路で見たもの と同じだ。そして、往年のアメリカTVドラマ『アンタッチャブル』の世界だ。 美男子ではない精悍なロバート・スタックが演ずるエリオット・ネス。 そして、なんとも憎らしげな敵役のフランク・ニティ……。

 セピア色の風景はいつか消えていくものだ。しかし、記憶の世界ではそう ではない。 (2005.10.10)



 ■2005年10月7日、

   総督漕運部院

     漢韓侯祠
こんな連休ってあり?と朝から何度も空を見上げていると、やっと昼になって、 太陽が顔を出した。ならば、ひとっ走り。めざすは楚州

 20qほど南下したところにある楚州は、自転車で汗をかくには最適。 それに、
一年前の 9月20日友人と一緒にのった自転車タクシーからしっかり見た 「韓信股くぐり」ゆかりの地をまだ撮影していない。

 中心にある「総督漕運部院」に到着(画像左)。大運河の水運を仕切って いた役所跡。だがなかなか「股くぐり」の地は見つからない。「漢韓侯祠」 (画像右)という1983年建造の祠はあっても、「股くぐり」はどこにあった のか、頭のどこかにある地図をけんめいにめくり、ひさしぶりに身体と一体 となった自転車が「こっち」、じゃ「あっち」と案内してはくれるが見つか らない。

    鳥の名は?


  明日なんてないはず、あるのは今だけ。しかし「明日がある」さ、と 帰路についた。でも、明日からは授業。土日も連休の補填。現実的にも 論理的にも、あるのは今という時だけなのに……。

 ……と思いながら、ゆるい北風に抗して自転車を進めていくと、自転車 リヤカーにじっと羽を休めている鳥たちを追い越した。「あれは何という 鳥なのだろう?」と頭によぎるものがあって、自転車を止め、待ち受けて シャッターオン。

 カラス?いや、ちがう。自転車にまたがり、3度目の確認をする。しかし、 わからない。猛禽類?かもしれない。確かなのは、飛び立とうとはしないで、 じっと自転車リヤカーで羽を休めているということだけだ。 (2005.10.7)



 ■2005年10月6日、 出かけたいのに、この連休はずっと雨と曇天。項羽も劉邦も飛んでしまった。

 しかし、うれしいことがあった。昨日、教員食堂でいっしょしたニューヨーク 育ちの先生がコーヒーをプレゼントしてくれたのだ。

 片言の英語で、「先生、インスタントコーヒーじゃなく、ひいたコーヒーが 買えるところ知ってませんか」と聞くと、箸をやすめて一所懸命に教えてくれた。 なかなか分からなかったけれど、どうやらこの淮安の「コーヒーラブ」に行けば 買えるという情報だけは聞き取った。

 さっそく、アクションを起こしたのだが、どうにもこうにもその「コーヒー ラブ」は見つけられず、がっかりしたのが昨日。しかし、わざわざ僕が好きだ と言った「モカコーヒー」を届けてくれたのだ。

 「人有鄰」、ひさしぶりにドリップで味わう「モカ」の香りとこくは、 当然のことだがネスカフェとは全く違っていた。 (2005.10.6)



 ■2005年9月30日、 床屋に行く。

 明日から10月7日まで国慶節の連休、その前にさっぱりしておこう というわけだ。連休には、項羽の宿遷、劉邦の沛県にでも行こうと思って いる。両方行っても、2泊3日で十分。

 「好きにやって。それでブーブーやってね」と電動バリカンを指差して もうルンルン。連休の上に、今日は若い可憐な床屋さん!

 10分後、目を開けると、しかし鏡に待ち受けていたのは竹中直人顔だった。 (2005.9.30)



 ■2005年9月27日、 「上官」という方に出会った。

 雨のため、スクールバスで宿舎から北校区までを往復。隣になった人に、 「どこの学科?名前は?」と聞かれ、「外文系で○×って言います。でも ○が姓で×が名ということでなく、○×の両方が姓なんです。日本では漢字 二字姓が多いんです」と答えると、彼も二字の姓だという。

 中国人の姓で漢字二字は珍しい。複姓といって、司馬遷の司馬とか、諸葛亮 の諸葛などがあるというのは聞いたことがある。でも、直接会ったのは皇甫 という学生につづいて二人目。

 化学の上官先生、なんかとってもすてきな人に会えた気がした。自転車通学 ではありえない。雨の日のバス通学もいいものだ。 (2005.9.27)



 ■2005年9月26日、 日本のマスメディアはおかしい、批判力がどんどん後退している。

 夏休みに東京で、衆院解散から総選挙前までの報道を見ていてそう思った。 メディアの偏向は当然のこと。だが、報道しないことが多すぎる。報道しない ことによって、現体制を肯定している。

 
森田実氏のページを見ていて、ますますその気持を強くした。 (2005.9.26)



 ■2005年9月25日、 曇り。ぐっと冷え込んだ。もうTシャツ・短パンでは寒い。

 しかし、そんな日曜日の今日も、「軍訓」はつづいている。
一昨日書いたもの とはまた別の側面もあるかもしれない。

 日本企業のどこだったか、新入社員オリエンテーションで海岸ダッシュなど の特訓を課す会社があった。ばかげたことだ。佐高信いうところの「社畜」 養成以外の何ものでもない。

 では、こちらの大学でのオリエンテーションはどうなのか。事は、理に かなったものなのか、どうか、だろう。もう少しきちんと見てみよう。 (2005.9.25)



 ■2005年9月24日、

   『頑張れ!クムスン』
秋晴れの1日。のんびり外を走り、TVをとっくり観る。

 なぜか、中国のテレビドラマは農村を排除しているようだ。現代劇はすべて 都市が背景。この時代を活写する中国現代ドラマに期待しているのに、なぜ 農村を避けるのか?一昨年には、都市の青年が辺境の農村で教師になり苦悩 する姿を描いたドラマもあったのだが……。

 そのためか、テレビドラマ専用チャンネル CCTV8 で放映中の韓国TVドラマ
『頑張れ!クムスン』を今日も観る。(中国放映名『加油!金順』) 1回50分で、毎日3回を続けて放映するので、今日で30回。逆境・不遇に 負けない若き女性が主人公。元気づけられて寝る日々がつづいている。 (2005.9.24)



 ■2005年9月23日、

     「軍訓」
9月10・11日に新入生の入学受付があり、以来、キャンパスでは画像の ようなオリエンテーションが繰り広げられている。

 「軍訓」と呼ばれ、人民解放軍の若い兵士が行進練習などを教えている。 軍事訓練というといかめしいイメージだが、見ているととってもおおらか。 「ねぇ、あの人、私をいじめるの!」と女子学生が先輩格の兵士に訴えて いるシーンなどを見かけると、思わず顔がほころぶ。

 かつては軍人の社会的地位は高かった。しかし開放経済になり、自ずから その地位は低くなり、貧しくて進学できない若い人々が入隊しているようだ。 違った境遇にありながら、若さゆえに自然に生まれる交流の場、それがこの 「軍訓」というオリエンテーションの一つの側面なのかもしれない。 (2005.9.23)



 ■2005年9月21日、 宿題チェック。そのうちの「〜だけに」という言い回しを使っての短文 づくり。

 「父がひとつ農村の百姓だだけに、私はさらに彼に心から敬服します」 と書いてきた学生がいた。間違いだらけだけれど、その気持にゆさぶられた。 (2005.9.21)



 ■2005年9月20日、 本来は授業の日、しかし、イベントに参加して──と連絡があり、 朝から夜までまる1日参加、くたくたになった。

 午前中は江蘇省第4回園芸博覧会開幕式から始まる。昨年からよく自転車 で通りかかった野原というか窪地というか、そこが鉢池山公園という 立派な名前がついて、面目一新、樹木や花々がきれいに植えられていた。 外国人なので「嘉賓」として参加。一昔前の中国でよく見られた歓迎をうけて、 ちょっとまいった。

 ドンドーンという花火で開幕式が終わって、ここもよく自転車で走る経済 開発区を見学。見学自体はたいしたことはなかったが、その後、経済開発区 管理委員会ビルで説明会・質疑応答があり、おもしろかった。この場には、 アルゼンチンの領事や、海外企業家も来ていた。

 「この経済開発区の特徴は、賃金は平均月給700元(約1万円)で、 出稼ぎ労働者でなく、当地の労働力に頼っている点です。そのための教育は、 4つの大学やいくつかの訓練センターなどで、毎年3万人の若い新しい労働 力を生み出しています」

 学生を「労働力」と見なす考え方は、ぼくの中にはなかった。企業という 観点から見れば、当たり前のことなのだろうか。

 昼食を市内で最高級の「迎賓館」でいただくと、午後は市の指導者たち との会見。座席序列が中国側、外国人側ともにしっかり決っているのが、 滑稽。トップは「市長」ではなく、「市委書記」。

 夕方からは、屋外体育館で園芸博・美食節記念イブニングパーティ。 ざっと見渡して、2万人の観客。羽前といった若い人気歌手の歌がつづく のだが、グランドにある座席から見る舞台はとっても小さく、といって大液晶 パネルを見続ける元気もなく、若者向けの歌にも興奮できず、切符に書かれ たチケットの値段、1800元(約2万5千円)分を楽しむことなどとても できなかった。

 やっと終り、花火と爆竹の中、屋外体育館のすぐ裏にある部屋に戻った のは、11時前。そういえば、去年の
ドカン・ドカンはこれだったのだ。 (2005.9.20)



 ■2005年9月17日、 市主催の「賞月晩会」に参加してきた。この地にいる30人ほどの外国人教師 を招待してくれたのだ。

 明日は、中秋節、こちらではお正月(春節)に匹敵するような大きな季節 行事。会場は、市内屈指の有力デパート、いや、その前の小広場。招待側の 市長を含む中国人と我々外国人は、あらかじめ設定された赤じゅうたんの 敷かれた座席にゆったりと着席。それを、通りがかりのこの地の人々が囲んで いた。間にいるのは、警備員。

 「賞月晩会(月見の宴)」は、まず祝辞から始まった。市長、市外事主任、 協賛デパート社長……。僕はこの晩会の前の宴会でしっかりビールをいただ いたためもあり手洗いにたち細部はわからぬが、英語の通訳もつき、延々 20分は続いた模様。そして、淮安TV局アナウンサーの流暢な司会のもと、 プロの歌手や、外国人教師の歌や演奏がつづいたのだが……。

 いたたまれなかった。「外国朋友(外国人の友人)」をもてなそうと いう趣旨はありがたいと思いながらも、ゆったりと坐ってプログラムを見て いる僕らと、立って見ることを余儀なくされている当地の人々。子供たちは こちら側に入って坐りたがる、それを規制する警備員。

 こちら側とあちら側、それがいやだ。たとえ唾を吐きかけられようと、 肩と肩がぶつかろうと、そちらのほうがましだ。そのためにこそ、ここに いる。日本ではちょっと手に入りにくいデラックス版月餅と協賛デパートの VIPカードをもらって帰ってきたけれど、この思いにかわりはない。 (2005.9.17)



 ■2005年9月15日、 サイクルメーターが5000qを突破!

 青島からここ淮安へ来て1200q余りを走ったことになる。だが、一年で この距離はあまりに少ない。自転車人間としては恥ずかしいほどだ。

 9月からは「足で走る感覚」を忘れてはならない、と思い起こし、短くとも 毎日ジョギングをすることにした。足で大地をふみしめ、蹴ること。そして、 大地・地球を腕で支えることも……ということで、逆立ちもすることにした。

 なぜ?といえば、直接的目標はともかく、究極的にはおいしくビールを 飲みたいということにつきる。 (2005.9.15)



 ■2005年9月12日、 新学期になり初めて宿題を提出してもらう。この週一回の宿題チェックが実は 難題。短文作成、中文和訳、文章読解とふんだんにあり、毎回、思いがけない 答に頭をひねくりまわさざるをえないのだ。

 ところが、集めた宿題ノートをちらりと見てみると、なんとノートの間に 手紙がはさんであるではないか。それも一人二人ではない。えっ、これは何! もしかして?──と突き上げてくる思い。

 だから、久しぶりの大雨でベチョベチョになろうとも、強風で傘が裏返し になろうとも、そしてバスがぎゅう詰めであろうとも、 部屋へ急いだ。「走れメロス!」内なる声が叫ぶ。はるか昔の高校時代、 そっと下駄箱に手紙を差し入れる彼女の姿をかいまみたことがあった。 あの時、感じたえもいわれぬ嫉妬の思いが、今、この僕に全く逆の形で訪れ ようとしている!

 いや、しかし、そうではなかった。やっぱり!9月10日はこちらの「教師節」。 学生諸君が教師に感謝の意を表する日。その思いをこめて書かれた手紙だった。 (2005.9.12)



 ■2005年9月10日、

『文明言行提示』の看板
『文明言行提示』(「文化的言葉のヒント」の意)という看板を見かける。 面白いので、じっと見つめた。

 1の「こんにちは」から始まって、「どうぞ……」「お待たせしました」 「ごめんなさい」などが続き、植え込みに隠れてしまって13の「ありがとう」 が何とか読める程度。いずれも、中国語初級会話で習うものだ。

 そんな簡単な会話が、なぜ「文化的言葉」なのだろうか。実は、これらは、 不思議なほどに聞くことが少ない。「謝謝(ありがとう)」を連発した ため、外国人と察知されることも多かった。(単に下手くそな中国語という ためだけだったのかも知れないが)

 中国語は、漢語であるということもあって、そのものズバリを表現するの に秀でた自己表現型言語だ。それにくらべると、日本語は、あいまいな表現で 相手に気持を察してもらうという他者依存の傾向が強い言語だといえる。

 どうやらこの看板の趣旨は、自己主張だけでなく、他者への配慮、 コミュニケーションの糸口を重視しよう、ということのようだ。中国語を 自己表現のみならず他者尊重も──と軸足の拡大を哲学として持っている ことになる。

 すると彼岸の日本語が気になる。ベストセラーになった斉藤某氏の 「うつくしい日本語」に対し、大野晋氏は「わかる日本語」を主張していた。 そして、「郵政民営化は改革の本丸」といった実体不明の言語使用法がまかり 通っている。

 民族や国家にとらわれている時代ではない、と思う。しかし、そう「思う」 思いが言語に縛られている。 (2005.9.10)



 ■2005年9月7日、 大学そばの二軒のレストランがつぶれた。

 一軒は卓数が8つほどで、中級の中華料理店、もう一軒はかなり高級な 大規模ブラジルレストラン。どちらも、6月末頃閉店し、改築工事にかかって いた。

 いったい何に生まれ変わるのだろう?と興味津々。で、ぶらりと行って みると、どちらも中国移動通信(CHINA MOBILE)になり、中は若い人で いっぱい。これは、ケータイ専門の会社だ。

 なんとなく「郵政民営化」後の郵便局を思い浮かべてしまったが、それも 弱肉強食の市場経済たるゆえんなのか。しかし、ケータイは食べられえない。 この調子でケータイ会社ばかりに席巻されてはたまらない。

 盛者必滅、って言葉もあるんだゾ!とつぶやきながらもどってきた。 (2005.9.7)



 ■2005年9月5日、 「わーい、日本鬼子!」

 教職員居住区にもどると、小学生、それも1・2年生ぐらいの子ども達が 戯れに言い合い、はやしたてていた。子供の遊びにも、テレビの抗日ドラマ は影響しているかのようだ。

 だがそれはテレビのため、とだけはいえない。お祖父さんお祖母さんから 直接「日本鬼子」というものを伝えられ刻み込まれた民族的傷痕は、簡単に 消えるものではあるまい。時の政権やメディアなどとは無関係に脈々と続く ものではないか。

 やられた側は忘れない、忘れられない。やった側は、やったとも思わない。 (2005.9.5)



 ■2005年9月4日、 日曜なので、テレビをつけると「抗日戦勝利60周年記念番組」をやって いて、昼間ずっと観てしまった。

 1931年の「満州事変」から1945年9月のミズリー号での調印まで、 多くのニュースフィルムをはさんで、体験者のインタビュー、そして解説者 の話まで、なんともこくのある番組だった。

 その中には、広島・長崎も含まれていて、録画だったが原爆ドーム・平和 公園を背景に原爆の事実を淡々と紹介していた。 (2005.9.4)



 ■2005年9月2日、 授業からの帰り、タクシーのデモを見た。

 健康西路にある市政府(市役所)前は人の波。「何かな」くらいの思いで 通り抜けてしまったが、目抜き通りの淮海北路に折れると、片車線にタクシー がずらっと並んで止まったまま。

 タクシーの数は合計数十台、百台にものぼる数。いずれも車体は茶色。 その色が、整理に当たる警官の制服の薄青色と、かわいた舗装道路の上で 不思議な色のコントラストをなしていた。 (2005.9.2)



 ■2005年9月1日、 新学期。二か月ぶりに見る顔、顔。教師をやっていてよかった、といつも 思う嬉しい一瞬。

 それにしても涼しい。この涼しさは、この季節、蒸し暑いのが普通のここ (大陸)には珍しいものだ。それは、自転車で走って教室に来たからなのか。

 そう、この新学期から外国語学部は移転した。これまで職住一体の同じ キャンパスから、「北校区」と呼ばれる所へ外国語学部は移転したのだ。 しかし、外国人教師の居住区は前のまま。よって、市中心から農村に近い 北へと授業のたびに通うことになった。それが涼しさを感じさせたのか。

 僕にとっては嬉しい移転。片道6.3キロの道を、毎日、自転車と 話しながら行ける! 毎日風を感じながら走れる! (2005.9.1)



 ■2005年8月30日、 淮安にもどるべく、成田から上海行きのノースウエストに乗る。

 上海・成田間で一番安い飛行機がノースウエスト。で、7月に往復 チケットを購入したきた。しかし、「E−チケット」という新システム を導入していて、航空券自体が配布されない。成田へ来る時も不安でたまら なかった。

 その不安は、しかし無事にチェックインできたので消えた。とはいえ、 その後の荷物チェックの厳しさはひどいもの。ライターは機内持ち込み不可、 手荷物は全てを開けさせられ、一つ一つ品物をチェック。この携帯PCは 電源まで入れさせられた。そのどれ一つとっても生まれてはじめての体験。

 「テロ対策」との説明があった。一点の理をもって全てを敷衍化する、 それはファシズム。売り物にしている「人権」はどうなったのか。「人権」 抑圧を根拠に侵略戦争と呼ばれようとも果敢に他国に軍隊を出す国では なかったのか。なのに、飛行機搭乗者の人権はないのか。今やアメリカこそが、 「ならず者国家」ではないのか。

 うんざりして飛行機に乗り、そして食べた機内食も、あんな荷物チェック が初体験だったように、生まれて初めて食べるまずいものだった。かつて 何度も乗ったノースウエストとは全く別物だった。 (2005.8.30)



 ■2005年7月8日、

      洪澤湖

      汴河

      sui河
泗洪という小都市を旅してきた。

 僕のいる淮安をちょっと離れると、あたりはもう一面の農村。泗洪までの 120q、稲田の緑が目にやさしい。牛やヤギやアヒルがかわいらしい。

 泗洪は淮安から見ると、西にある洪澤湖の向こう側、安徽省に近い ところに位置している。右の画像のように、sui(「淮」の字の中央に目が入る字)河・汴河が町の中央を流れ、とても落ち着いたきれいな町だ。


  雪楓陵園記念塔

 雪楓陵園の梧桐
 洪澤湖に面した半城鎮へ。雪楓陵園をまず訪ねる。ここには新四軍第四師・ 師長だった彭雪楓という人と、その部下達の慰霊碑がある。彭雪楓は、 1945年、戦闘の中で倒れたという。資料館には、彼が彭徳懐やケ小平 と並んだ写真も掲示されていた。

 蓮の池、そして梧桐の木々、静かな陵園は中国解放のために命を失った 人々を心から悼んでいるように感じられた。この後、最初の画像にあるように 洪澤湖へモーターボートで向かったが、どんより曇った空までが哀悼の意を 表しているかのようだった。この日、7月7日。 (2005.7.8)



 ■2005年7月4日、

『東アジア三国の近現代史』
何度か新華書店に足を運んで、やっと
『東アジア三国の近現代史』を入手。一通り読んでみる。

 きれいな装丁、ほとんどのページに絵か図、写真があるという作りで、 とてもビジュアル。内容も全体的によくまとまっている。韓国・中国・日本 の状況が19世紀中葉から対比的に書かれていて、せめて僕の学生時代 にこんな本が出ていたらよかったのに、と感じた。

 もちろん、この一冊で全てが済むわけではない。しかし、相互に重なる 三国の歴史を鳥瞰できること、そして何よりも三国の歴史家たちの手に よってできたことがすばらしい。 (2005.7.4)



 ■2005年7月1日、

     『人魚お嬢さん』
CCTV-8で放映していた韓国ドラマ『人魚お嬢さん』(中国名『人魚小姐』) が今日で終わった。

 この連続TVドラマ、長いのが当然の韓ドラの中でも150回と桁外れ に長い。チャン・ソヒという、ためいきが出るほどに美人の女優が主役で、 3つの家庭が背景。

 内容は、言ってしまえばなんということはない。復讐、恋愛、結婚、波瀾 ……。だが、どこにでもありそうな平凡な日常の中に材を取りながら、 ふだん温厚な「いい人」が悪魔のようになる点を描いている点が非凡だ。

 実はDVDで、チェ・ジウ、ペ・ヨンジュンを追って、並行して『初恋』、 『ホテリアン』、『美しい日々』などを見てきたが、勧善懲悪ドラマを完全 に越えているのは、この『人魚お嬢さん』。

 韓国の冠婚葬祭、日常スタイルもこのドラマから初めて知ったものが多い。 そして、ぼくの中国語聞取り能力もきっと向上したのだろう、と信じたい。 (2005.7.1)



 ■2005年6月30日、 試験の帰りに次学期の教材をもらいに行く。

 次学期というのは、9月から2006年1月まで。まだ具体的にどの 教科を担当するのか知らないのに、「図書館の教材コーナーに行けば分かる から」と教務処(日本の教務部と同じ)の教師が言うので、行ってみた次第。

 しかし、案の定、教材コーナーのスタッフも分からなくて、まったくの お手上げ。
一昨昨日の官僚主義とまたまた遭遇か、 と一瞬気色ばんだ。

 しかし、この教材コーナーの女性スタッフ、「あぁそうですかぁ」と即座に 電話して手配。こういう膠着状況はお手の物のようだ。そして、「ちょっと 待ってね。今、届けてくれるから」と言って、それから、あれやこれやと 四方山話。

 あげくの果てに「先生、今おいくつ?」と来た。来たな、と察したこちら、 「さあいくつでしょ、当ててみて」とさわやかにかわしたところ、「ん、20 台、ではないですよね。30台かな?」とこの女性、自身と同じ年齢を僕に 見てくれたようだ。

 「ありがとう」と思わず心からの感謝の気持が口をついて、そんなこんな しているうちに、担当教科と必要教材のリストが届き、どっしりと重い教材 を抱えながらも、はずむ心で部屋へと向かった。

 非能率性が官僚主義の弊害であることはもちろんだ。しかし、能率主義が 人と人とのコミュニケーションを奪うこともある、と痛感。 (2005.6.30)



 ■2005年6月29日、 NHKの海外放送をかけていたが、あまりのつまらなさに、北京放送の 日本語番組を聴いてみた。

 これが、なかなか面白い。アナウンサーの日本語がとてもきれいで、もし かするとNHKも顔負け!そして秀逸は「お便りコーナー」。意外な質問、 硬い質問にも、淡々と答える若い女性アナが素敵。どんな人かな?と顔まで 想像してしまった。

 実は、北京放送の日本語放送をはじめて聴いたのは、今から40年以上も 前。「日本の同志のみなさん、友人のみなさん」という呼びかけが所々に 入って、とってもまじめな内容で、おもわず正座してしまった僕がいたっけ。

 しかし、今では寝ころがって聞ける北京放送。とってもいいことだ。 (2005.6.29)



 ■2005年6月28日、 劉連仁さんの高裁判決が出たことを知った。

 劉連仁さんは北海道に強制連行・強制労働をさせられていて、1945年 逃亡。日本敗戦を知らないまま、1958年に発見されるまで実に14年間 にわたってたった一人、北海道の山野を徘徊していたという。

 『穴にかくれて十四年』という本を1970年ごろに読んでショックを 受けた記憶がある。

 一審地裁勝訴、二審高裁敗訴。日本の裁判所は上へいくほどおかしい。 判決理由をサイトであれこれ見てみたが、これが法理論にそったものなのか。 とても納得できるものではない。理論としてハチャメチャだと思う。

 また朝日は社説で、2000万円という賠償請求額をとりあげて、裁判で はなく民間で賠償できないか、といった主張を展開している。これも、 筋違い。 (2005.6.28)



 ■2005年6月27日、 学期末試験の問題を提出。先学期、試験問題作成 でかなり苦労したので、今回はそんなことにならないようにしよう、と心構え していたものの、やはり苦労してしまった。

 そのわけは、試験問題を2本提出しなければいけないこと、提出に当たって いくつかのめんどうな手続きが必要なことだ。試験問題を2本提出するという のは、不合格者の追試のためのもの。これは、わからないでもない。しかし、 問題は、提出に当たってのめんどうさ。

 ぼくは思わず、「これが官僚主義というものですね」と怒鳴ってしまった。 しかし、言われた相手は、そういわれても困る、いわば同僚。

 もちろん、その後、その同僚には「すみません」と謝ったけれど、少なく とも官僚主義的であることにまちがいない、と思った。 (2005.6.27)



 ■2005年6月25日、 親しくなった中国人の先生と二人で飲む。一年間仕事を休んで修士論文 に臨むとのことで、もしかしたら会えなくなると思ったからだ。(僕は、 もう一年だけここで仕事することにした)

 驚いたのは、ソーローの『森の生活』を知っていたこと。彼は、もともと 中国文学専攻でありながら、英語は堪能。元中国文学専攻?のたよりない僕に 最初、英語で話してきたので困ったほど。

 まだ若いのに結婚していて、結構大きな子どもがいながら、41歳になった ら、中国の奥地で自然にもどる生活をするのが彼の望みであるという。

 で、ソーローの話になったしだい。そして、彼は熟知していた。「中国の 老荘を彼は体現していたともいえるのでは?」と聞くと、「そう言えますが、 決定的に違うのは、中国の場合、例えば陶潜がそうであるように仕官して、 意にそぐわない時、自然の世界にもどろうとするのが常でした。しかし、 ソーローはまったく違います」

 こういう人がこの地にもいるということが驚きだった。改革開放の時代、 つまり金儲け至上主義の時代になっても、人間にとっての本質を求めようと する人が、ここにいる。 (2005.6.25)



 ■2005年6月23日、 ゴザが支給された。ベッドに敷くものと、枕カバー用と二つ。

 い草の匂いがプーンとして、ひんやりとした身体感覚だけでなく、 嗅覚からも体感温度を下げるようだ。これだけで、5℃は違う気がする。

 青島では見かけなかったが、ここは、い草の文化が生きている。 (2005.6.23)



 ■2005年6月20日、

  今日の「ねむの木」
分からないで頭を悩ましていた木の名前が わかった。

 二人の友人が前後して「ねむの木だよ」とメールで教えてくれた。 ありがとう。

 ねむの木、「合歓の木」、中国語では「合歓樹」。ぼくの頭には 「ねむの木学園」(宮城まり子園長?)しか思い浮かばない。

 でも……という思いで、さっそくカメラを手にまたまた撮ったのが、左。 あの針よりも細いようなたくさんの花弁は、南国で生きるための知恵なのか、 たくさんの蜂たちが花を愛でるようにブンブン舞っていた。へぇ〜、これが、 ねむの木なのか、ということで、すべての謎が解けたように思えた。

 といっても、一人合点は禁物。中国の花に思いをこめて書かれた『中国の 花物語』(飯倉照平・集英社新書)を開いてみた。小さな本なのに、中味は すごい。あの『聊斎志異』にも、そして『奥の細道』にも、ねむの木とその 花は、咲いていたという。 (2005.6.20)



 ■2005年6月19日、 風邪を引いてしまった。

 これは、明らかにエアコンのせい。ここのエアコンは暖房は弱いのに、 冷房は強力。除湿(中国語では抽湿)にしても、かなり強いので、元来 繊細なせいか?、やられてしまった。

 暑い外を鼻水をグズグズたらしながら歩く自分がいる。 (2005.6.19)



 ■2005年6月16日、 たまたま、立花隆の『メディアソシオ・ポリティクス』というHPを知った。

 靖国神社について、書かないといけないかなと真面目に考えていた矢先、 立花氏は、「反日デモ」当時から論陣をはっていたのだ。そして、そもそも の首相の靖国参拝についても、分かりやすく問題を指摘している。

 首相・小泉に対して、若干甘いかな、という印象をもったけれど基本的な 点では同意できる。 (2005.6.16)




  なじみのビール諸君
 ■2005年6月15日、 暑い。9時過ぎにはもう太陽光が直接頭を攻撃してくる。

 しかし、だからこそ、ビールの季節。喉から身体全体にしみわたっていく ビール、まさに砂漠の中でやっとたどりついたオアシスの清涼感。その一瞬の ために、人は汗をかき、そして生きているのだ。

 なじみのビール諸君を紹介しよう。いずれも40円日本円以下でスーパー で売っているもの。一番左はチンタオビール、上海製だが、味は青島のと 同じ。ビールらしいビールで、ビールの王者。その隣は、ここで初めてお会い したアサヒビール。杭州西湖製造で、100m以下の天然石英砂岩冷泉水を 使用という能書。だが他のビールはみな640mlなのに、これだけ630ml とちょっと量が少ない。その少なさが、味の物足りなさともつながっている 気がする。

 一番気に入って口にすることが多いのは、実はサントリー。右から二番目、 そして一番右のプリンスビールも実は江蘇サントリー、ここでの普及度が高い。 「三得利」というサントリーの音訳に一票ということで、破廉恥な富士山の 絵柄の失点を帳消しにしてあげている。この2種類のサントリー、味がすなお、 しかも値段が他と比べて5円ほど安いということで、お気に入り。

 むろん、スーパーには他の銘柄、たとえばハイネケンとか北京の燕京ビール とかも並んでいる。しかしこれらは値段も高く高級ビールとなる。庶民価格 では、日本勢が果敢に挑戦しつつあるというのが、このあたりのビール市場 戦争と見受けられる。 (2005.6.15)



 ■2005年6月12日、

     何という木?

 花の部分をクローズアップ
毎日通る道にあるこの木は何という木なのだろう。気になってたまらない。

 数日前から、花が咲きはじめ、そろそろ身を結びつつある。何という木 なのだろう。細い花弁が無数に扇子のように開いてついている花。しかも、 外側は濃くて内側は白い。(画像右)

 あまりにも知らないことが多い。名を知ってはじめて、木を知り、花を 知ることができるのに。いったい何という木なのだろう。 (2005.6.12)



 ■2005年6月10日、 新聞『現代快報』の一面に、「権威ある本が日本右翼に反撃する」 という見出しがおどっているので、早速買ってきて読んでみた。新華社 によって配信されたもの。

 中日韓三カ国の学者が共同編集した『東アジア三国の近現代史』 の中国語版がいよいよ9日に出版の運びになったという報道記事と解説記事 で、タブロイド版、合計1ページ半を使っている。この本は先月、日本で 『未来をひらく歴史──東アジア3国の近現代史』(高文研)という形 で出版されているものだ。

 報道記事には、「歴史読本は三国の共通した歴史観をおしすすめる」 「南京大虐殺について各国の学者に意見の相違はない」「日韓両国での 売れ行き良好」といった見出しがついている。

 解説記事の見出しは、「正しく歴史を知り、東アジアの平和を構築しよう」 というもので、編纂者の一人・朱成山という学者にインタビューして書か れたもの。

 2001年から作業は始まり、3カ国・40人の学者の手によって完成した とのこと。一国史観にこりかたまりやすい近現代史、こういった本がどんどん 出版され、「国家」を越えて生きる人々が多くなることを望む。 (2005.6.10)



 ■2005年6月8日、 全国統一試験が昨日からはじまった。「高考」と呼ばれ、その得点によって 入学できる大学が決定する。大学二年生の学生の話では、自分たちが受験し た一昨年は、710点満点で590点を取らないと、江蘇省の名門・南京 大学には入れなかったという。

 全国で今回800万人が受験するこの試験、すべてコンピュータ処理されるの かな、と思っていたが、国語では800字以内の作文が課せられているという。 科挙の伝統はなお健在だ。

 この作文、全国共通が基本、しかし14の省では独自問題とのこと。
北京は「『安』が題名。ただし、安全・安定・安寧などと解釈 していい」、 広州は「記念」、浙江省は「一枝一葉一世界」、天津市 は「明日に残す」……

 いったいどんな基準で採点するのだろう。 (2005.6.8)



 ■2005年5月30日、 続けて「韓国ドラマ」の『ガラスの靴』を見終える。昨年12月にテレビ放映 されながら、冬休みで終りまで見きれないでいた。

 全50回という長編。中国の章回小説でいえば、いいところで「下回分解」 となる。連続ドラマとしての作りがうまい。こちらとしては、DVDという こともあり、一気に見てしまった。

 だが、良質の長編小説、たとえば『モンテクリスト伯』などと比べて、 鑑賞後に心に残るものが少ないのはなぜか。それは、なにも目がショボショボ になってしまったためだけではあるまい。

 ストーリー展開のうまさはあっても、ストーリー全体を通して訴えかける ものがない。主張あっての技巧なのだ。 (2005.5.30)



 ■2005年5月20日、 「韓国ドラマ」にすっかりのめり込んでしまった。

 ユン・ソクホ監督の『秋の童話』『冬のソナタ』『夏の香り』の三部作を とっくりと中国語吹き替え・字幕で堪能。

 三作では、やはり『冬のソナタ』がよくできている。音楽もいいし、しかも 映像とよくマッチしている。この点、『秋の童話』は、『禁じられた遊び』の 主題曲を使用するという間違いを犯してしまっている。ストーリー的には、 『夏の香り』は意外性もあって面白かった。しかし、結末をまとめきれて いない。

 いずれの作品も、ヒロインがすばらしい。男優はヨン様を含めて全て落ちる、 というのは僕の趣味か。三作共通のテーマ、「失われた過去を求めて」 は、第4作目『春の○○』でも踏襲されるのだろうか。 (2005.5.20)



 ■2005年5月18日、

   淮安のプラタナス

   南京のプラタナス
DVDに生活を支配されてはいけないので、昼の街を流してきた。

 淮海路には、左のようにプラタナス(鈴懸)が街路樹として植えられていた ことに気づく。南京で、蒼々たるプラタナスの並木道(右)を見てきたので、 はじめて、それと知ったのだ。

 南京のプラタナスは、枝が二つに分かれ道一杯を日陰にしていた。それに くらべ、わが淮安のそれはまだまだ若くて日陰にする力もあまりに弱い。

 年月がたてば自然に重厚さが身につくというわけでもあるまい。 (2005.5.18)



 ■2005年5月15日、 このまま夏が来るのかと思ったが、そうではない。この4日、ずっと天気は 曇り、外へあまり出る気にならない。

 ……ということで、DVDレコーダーを買ってきた。
『記憶の証明』などのDVDも一緒に購入。 (2005.5.15)



 ■2005年5月10日、 昼食時に、学生と話す。

 「先生、ゴールデンウイークはどこへ行きましたか?」、「うん、僕は友達 が東京から来たので、南京と上海にね」

 「南京は5月1日に、上海は4日にデモがあるって聞いたんで、参加したい と思ったんだけど……」「えっ、日本人なのに、日本に対するデモに参加する って?それにそのデモ、違法です」

 国というものを、そして時の政府というものをかたくなに信じている学生が ここにいた。
(2005.5.10)



 ■2005年5月2日、

南京長江大橋から見る長江

 下から見た南京長江大橋
労働節(5/1〜7)の連休、東京から友人が来て南京・上海を旅してきた。

 その断片がこの長江。残念なことに曇り空、空と長江との切れ目が判別 できない。そのためなのか、心の片隅にあった長江のイメージとはまた別の 長江だった。

 そして、南京長江大橋を下から見上げる。1968年、文革のさなかに 完成したこの橋は、名実ともに当時のシンボル的存在だった。刻み込まれた 毛沢東の「人民、ただ人民だけが世界歴史を作り上げる力だ」という言葉が、 時というものを感じさせた。 (2005.5.6)



 ■2005年4月27日、

       梧桐

 クローズアップした梧桐
暑い。真昼はもう陽射しがまぶしくて外へ出る気にもならないほどだ。 よって、しっかりと昼寝の習慣ができてしまった。

 夕刻、やっと涼しくなり、自転車で街を流す。街路樹は比較的多い。しかし、 残念ながらまだまだ小さな木が多い。そんな木々をみながら、ひときわ大きな 木に目が向く。

 ガソリンスタンドのかたわらに自転車を止めてシャッターオン。緑はない、 だが、樹木全体が薄いピンク色の花々でおおわれているように見える。 桜や桃ほどの華麗さはなくとも、空へ向かって突き出すように咲く花々を 身体全体に擁しているイメージだ。

 なかなかのものだ、と思いつつ花房をズームアップして(画像右)撮ったり していると、スタンドの人が、怪訝に思ったのか、よってきた。「何という 木ですか。きれいですね」と聞くと、「wutong」ときれいな普通語で 教えてくれた。

 そういえば、その昔、梧桐(あおぎり)が出てくる中国の小説を読んだ 記憶がどこかにある。しかもその題名も、『梧桐樹』ではなかったか。 どんな内容だったのだろう、おもいがけず、失われた記憶を求める1時間の 散策になった。 (2005.4.27)



 ■2005年4月25日、 寝る前に、思った。

 小泉首相がバンドンで「平和の誓い」演説を行ったその日、日本では 80人もの国会議員が靖国参拝をしたという。

 その参拝光景が何度もなんどもTVで報道される。すると、日本という国は、 首相がああいう演説をしながら、実はかつてのファシズムを何ら反省しない国 であるというイメージが、くりかえしばら撒かれる。

 一方、中国の「反日デモ」の暴走シーンが繰り返し報道される。すると、 当然、「警官が暴走をくいとめないひどい国」というイメージがばら撒かれる。

 報道されたものは、ある事実であることは確かだ。しかし、その一点 の事実は、どちらもその国のすべてではない。

 「ある事実」の蔭にある数百万の事実をないがしろにして、「一点の事実」 だけをクローズアップして報道した時、生まれるものは虚像だ。そう思った。

 ※「国会議員80人の靖国参拝」は、この国で何も報道されてはいないようだ。 (2005.4.25)



 ■2005年4月23日、 せっせと仕事。授業で使っている2冊の教科書と取っ組み合い。

 その日本語教科書から、ふと、友人が日本から送ってくれた生徒用国語 教科書・便覧に目が向く。どっしりとした風格ある冊子、ふんだんにある カラーページ、そして詳細にみれば、つやつやした用紙が使用され、その紙 一枚一枚がこちらの数倍の厚さもあるではないか。

 愛用の水性ボールペンで書き込むと、にじんでしまいがちなこちらの本。 うっかりするとページを破きかねないキャシャなこちらの本。でも、同じ ページ数なら数倍も軽いという良さもある。

 形ではない、どう使うかだ、そう思う。 (2005.4.23)



 ■2005年4月22日、

 蘇皖辺区政府旧址記念館
朝、小泉首相がジャカルタへ行ったというNHKのニュースを耳にする。 「反日デモで冷え込んだ日中関係を打開できるか」「胡錦涛主席と首脳会談 に臨む予定」とのこと。

 このニュースには頭をひねった。「冷え込んだ日中関係」は、「反日デモ」 によるものではない。首相・小泉自身がA級戦犯を合祀している靖国参拝を 繰り返してきたことが最大の原因だ。それをあたかも「反日デモ」に原因 があるかのような、この報道はおかしい。

 「冷え込んだ日中関係」を正す道はただ一つ、首相・小泉が記者会見を 開き、「靖国参拝は一国の代表者として間違っていた。内閣閣僚も含めて、 今後いっさい参拝しない。なぜなら靖国には、侵略戦争の指導者が祭られて いるからだ」と明言すること。それ以外にない。

 すべてのニュースは偏向している、それが解説という形をとらずに事実 報道という形をとっているだけに、もたらす弊害は大きい。

 では、こちら中国ではどういうふうに報道されているか、といえば問題は 違った形で、存在する。「反日デモ」自体、報道されていない(ようだ)。 今日になって新華社電として「無許可デモ禁止、法律によって破壊行為は罰する」 というニュースが流れている。

 TV・新聞以外のメディア、インターネット上ではどうか。たまたま
中国918愛国ネットというサイトを見つけた。その中に、「日本の報道関係者へ」という 記事があった。中国語の下に日本語の訳もある。若干日本語訳に問題はある が、デモの意図は明確に語られている。また、同サイトにこちらは 中国語だけだが、 「一位在日華人給918愛国網編輯部的信」(ある在日中国人が918 愛国ネット編集部にあてた手紙)という記事が掲載されている。「日本人 すべてを対象とした『日本打倒』といったスローガンや、国旗を燃やす行為は、 日本の民衆の心を右傾化させ、右翼勢力を伸張させる」というように、冷静な 主張が述べられている。

 ……気分転換、ということで街を自転車で流して、「蘇皖辺区政府旧址 記念館」をのぞいてみた。僕のところから近いのだけど、閉まっていること が多くてなかなか入れないでいたのだ。

 1945年11月に、蘇中・蘇北・淮南・淮北の四つの解放区を統合して この民主聯合政府はできたという。中は狭く、展示は簡素、しかし、 きちんとまとまっていた。セピア色にぼけた多くの写真が、新しい国を 作ろうとしていた意気込みを逆に強く感じさせた。 (2005.4.22)



 ■2005年4月21日、 暑くなってきて、ボサボサ頭がうざったい。そこで、久しぶりに床屋へ 行ってきた。

 床屋はもともと大の苦手。 じっとしていなければいけないのがまず苦痛 だし、その上、自分の顔と長い間にらめっこ、もうたまらない。

 だがこちらの床屋は、それほど苦にならない。ハサミを入れやすいように 頭をグッと下へ押さえるので、鏡があっても自分の顔を拝む必要はない。 頼まなければ髪も洗わないし、ともかく速い、安い。たった15分で終了、 3元(40日本円)。

 「15分のとこやでさっぱり美男子くん」などと口にしつつ帰る道には、 柳絮がふわりふわりと舞っていた。 (2005.4.21)



 ■2005年4月20日、

      惟珍
授業のあいま、窓際の学生たちに、『冬のソナタ』って知ってる?と聞いて みた。エッ、という感じで女学生たちの顔が輝いた。

 みんな観たことがあるとのこと。実は何を隠そう、僕は昨年のゴールデン ウィークに新疆を動きつつ連日観つづけたのだ。その時は、ウイグル語 吹き替えの中国語字幕。(画像はその時のもの)そして、つい昨日までは 中国語吹き替えバージョンをTVでやっていて、もうメロメロ。

 「なんでウエイジェン(惟珍、女主人公。中国語ではこういう名前)は、 アメリカに行かないでフランスに行ったの?」と聞いてみたが、手ごたえなし。 どうやら、最後の別荘シーンで二人は最終的に結ばれた、と捉えている ようだ。どうも僕には不満が残る点なのだが……。

 みんなから見て、裴勇俊の演ずるジュンシャン(俊尚)と、シャンイ (相奕)のどちらが素敵な男性なの?──とふってみると、声を合わせて、 「もちろん裴勇俊よね」とのこと。やはり、ヨン様は圧倒的に支持されて いるようだ。

 たった5分間のやりとり、なのに授業中には決して見られない学生たちの 嬉しそうな顔、ひきづられて僕も嬉しくなってしまった。 (2005.4.20)



 ■2005年4月17日、

    呉承恩故居

 楚州へ向かう里運河土手
春の風に誘われて、南に向かう。
里運河 の土手は右のように、緑風がさわやか。

 風にまかせて、そのまま楚州へ。昨年、どうしても見つからなかった 呉承恩故居にいつのまにかたどりつく。 懸命にさがそうとすると見つからない。そんな経験はいつもどこかでしていた ような気がする。無心であることが大切だということか、それとも単に手直し していた故居が修理を終えたため、見つかりやすくなっただけのことか。

 呉承恩生誕500年とのこと。「故居」といっても全てが作り物なのは 当然だろう。中国で著名な孫悟空役者・ 六齢童の展示までもあった。

 3年前に訪れた蒲松齢 故居もそうだったけれども、「故居」というものは、その人の匂いがまだ かすかでもいい、残っていなければ意味はないだろう。いや、必ずしもそう ではないかもしれない、「故居」という形で何世紀も前の人を思う現代の 人々の姿を、作られた「故居」から見ることができるのかもしれない。

 ……などと、結論のでないことを思いながら、15kmの帰路を帰って来た。 (2005.4.17)



 ■2005年4月15日、

      桜並木
学院には桜並木があって、この数日で一斉に開花した。
1週間前の桜とは違って、これはもう、 堂々とした自己主張をしている。気づかないでいた自分がうかつだったが、 桜たちはひっそりと自分の営みを続けていたのだ。

 桜並木を通って教室へ向かうと、女学生たちの笑みが待っている。それは 桜に負けない。今日は、日本のTVについてのコラムがあったので、 「何を見たことがありますか」と振ってみた。『ドラエモン』『ちび丸子』 『クレヨン新ちゃん』『スラムダンク』、そしてキムタク……。日本アニメは 若者ならたいてい知っているようだし、キムタクは同世代のアイドルの 一人なのだ。

 そういえば、こちらのテレビで中国女子バレーチームの選手が、 バレーボールを始めた動機として、『アタックNo.1』(これでいい?) を挙げていたのを観たことがある。宮崎アニメも有名、インターネット上 には、中国の専門サイトさえある。

 こう見ると、日本のアニメ文化などの発信力はすごいものだ。あの ドラエモンノビタをかなりの中国人、それも若い人が 知っていることは素晴らしいことだ。(ノビタに、藤子不二男に 乾杯!)それに比べると、日本の政治・外交面での発信力は余りに弱い。 世界に誇れる平和憲法を盾に堂々と語れる日本であるはずなのに。 そもそもドラエモンノビタも、平和憲法があったからこそ 生まれたキャラクターではなかったか。

 視点を変えてみよう。一方にノビタを知っている中国人の若者達が いる。しかし、日本人のどれだけの若者が、中国のノビタを知って いるだろうか。

 「大使館に投石しているのに何もしない中国の警官」、「上海のバーで、 日本人だからといって殴られた留学生」……。それらはとんでもないこと、 当然抗議すべきだ。だが、待っていました!とばかり、「中国人は民度が 低い」といった石原慎太郎流の差別発言の再来、そして日本ナショナリズム の台頭、それが恐い。大きな禍しかもたらさないからだ。

 仲良くすること、そのために平和憲法を大切にしていくこと、それを ドラエモンノビタは望んでいるように思う。桜のように、 それぞれの人が自分の営みを忍耐強くつづけていくことによって、それは 開かれるのだろうか。

 ※この間、さまざまのメールを頂戴しました。しかし、僕は同じように 元気です。ありがとうございます。 (2005.4.15)



 ■2005年4月11日、 そのまま夏になるのかなと思ったのだが、そうではなかった。9日は珍しく 一日中雨が降りつづき、9・10・11日と天気は逆戻り。かたづけたはず の電気ストーブがまた仕事をしている。

 この間、ここ中国で大規模な「反日」デモが起こっているという 報道を耳に(目に)した。NHKの海外放送とasahi.com、その他……。 「愛国教育に問題がある」「直接政権批判をできないため、不満を日本に 向けている」「中国政府自体が学生をそうさせている」……といった論調と 共に伝えられている。

 それぞれに一点の正しさがあるかもしれない。(その「一点の正しさ」にも 疑問はある。それはここでは触れない)しかし、そんな風に他国にすべての 問題を還元する考え方は、間違っている。

 なぜ、隣国の韓国・中国と日本は仲良くできないのか。答は明確だ。 1945年までの数十年の侵略の歴史を正視して、わかりやすいメッセージ を発信してこなかったからだ。それ以外の答はない。

 いざ、韓国で中国で「反日」デモが起こると、きまって語られるのが、 日本は「村山談話」のままです──というメッセージ。しかし、「村山談話」 は談話であって国会決議といったものではない。しかも、時の日本の代表者 である総理大臣が律儀に靖国神社参拝をくりかえしていれば、御都合主義的 なメッセージとしか、受け取れない。

 日本がすべきことは何か。これも明らかなことだ。現実的には、アジアの 侵略したそれぞれの国に日本の代表者が出向いて、日本の侵略のために 亡くなった人々の慰霊碑に心からの哀悼の意を表することだった。そして 理念的には、国連憲章よりも未来志向である日本国憲法にそって、行動 すべきだった。

 それ以外にこの国を救うてだてはない。もしそうしていたなら、いや、 今からでもそうすれば、まだ道は切り開かれる可能性はあるかもしれない。 「領土問題」は二の次だ。国家というものにそれぞれの国がこだわれば、 いつだって出る問題だから。 (2005.4.11)



 ■2005年4月8日、

      桃の花

      桜の花
「春になった」と先日書いたが、真昼はもう暑くて外に出たくなくなるよう な日が続いている。冬から夏へのテンポは、青島よりもずっと早い。

 学院の木々も、今週になって一挙に開花しはじめた。本数は多くないのだ けれど、桃も桜もあることに初めてきづいた。そこで、今日は学生たちと スナップ写真。

 左が桃、右が桜。どう見比べても、桜は見劣りしている。葉が、冬枯れの ままなのか赤みをおびてしまっていて、花も精彩を欠いている。それに 対して、桃は葉もなくピンクのその花びらも桜よりずっと濃い。

 しかも、昨晩かなり強い風が吹いたせいもあるのだろう、桜は遠慮がちに かろうじて花をつけているという感じ。あまりに可憐で華奢なのだ。それに 対して、桃の花は、強風などものともせず、明確な自己主張をしているよう に見える。

 桃の花は、陶淵明の『桃花源記』などに見えるように、中国人に愛されて きた。それは、「世の中にたえて桜のなかりせば……」と歌った業平を日本人 が好むのと変わりはあるまい。

 そんなシンボル性もあって、僕には、明確な主張をする中国と、時の政権 にさえ愚弄されている日本の平和憲法とが、桃と桜のイメージと重なって 見える。 (2005.4.8)



 ■2005年4月3日、

   サッカー少年たち

  古黄河を鴨がスイスイ
一気に春になった。ダウンジャケットよ、さらば。陽射は強い。夏を 思わせるそれだ。

 春だ、桜だ、桜だ、花だ!と町へ出る。そう、桜はなくとも、たしか桃の花 の見られる庭園があったはず。
古黄河沿岸 へと自転車は疾走。

 だが、今日は日曜、庭園は人でごった返している。ならば、と気持を 変えて古黄河沿岸をのんびり。サッカーに興ずる少年たち、鴨は 羽づくろいを終えると、気持よさそうに古黄河をスイスイ……。


    古黄河べりの家

 古黄河べりの新築住宅
 いつか、どこかで 見かけた光景がここにある。そして、暖かく注ぐ太陽。心なしか、ウグイス を思わせる小鳥のさえずりまでが聞こえてくるではないか。

 ふと、対岸に目を向ける。すると橋をはさんで左右、つまり西・東に 対照的な住居が建ち並んでいる。西は、よくある伝統的な農家風、東は 新築されたばかりの新築一戸建て住宅。その向こうにアパート(マンション) が見えるが、この一戸建て住宅の方が値段も高いに違いない。

 前を流れる細い古黄河の流れは同じなのに、なぜか、違っているように 目に映る。こうして、黄河の流れは人々を見守ってきたのだろう。 (2005.4.3)



 ■2005年3月31日、 授業で、「〜といっても」という句型(言い回し)が出てきた。

 日本人が外国語を学ぶ時そうするように、外国人が日本語を学ぶ場合も、 句型という形でマスターしたほうが手っ取り早い。そういう観点から教科書 が作られているようだ。

 で、これはそもそも、孟子の「〜人といへども吾往かん」の「いへども」 から日本語になったもの。ならば、彼の地の、いや此の地の人々にきちんと お返しすべきだ。

 と、思ったのはいいのだが、肝心の「〜人」が何人なのか、記憶が定か でない。う〜ん、「食客三千人」、「白髪三千丈」、邪馬台国の位置が 魏志倭人伝で「三千」の数字を使っていたように、三千ではないか。

 そう思って、電子辞書・漢和辞典を引いてみたら驚いた。なんと「百万人」 ではないか。孟子はただものではない。

 で、「〜といっても」の時に、嬉しい気持を隠さず、「雖百万人吾往矣」 と大きく黒板に書いてみた。だが、残念、知っている学生は一人もいなか った。きっと、『孟子』でも、違った部分を勉強しているのだろう。

 スケールの大きいものへの憧れが日本人にはある。しかし、中国人にとって 大きいのは普通なのかも知れない。 (2005.3.31)



 ■2005年3月29日、 学食で昼食をとっていたら、顔なじみの学生が一人でやってきた。

 「一人」というのは、めったに見かけない。特に、女子学生の場合は、 腕を組んで仲良くいっしょにやって来て食事するのが常なのだ。

 けげんに思って、「どうしたの。一人で」と聞くと、どうやら図書館で勉強 していて遅くなったらしい。「何の勉強」と、なかば「日本語の勉強で〜す」 という答を期待して迫ってみると、意外な答が返ってきた。「党員に なる勉強です」

 エッ、と言う思いをこらえて尋ねてみると、やはり入党の勉強をしていた とのこと。「人民のため犠牲になることを恐れず」といったものではなく、 真面目な学生なら入党を考えるのが普通のようだ。

 じゃ、質問するよ。と、僕は鶏丁蓋澆麺、彼女はダイエットのため粥を 食べながらの質疑応答の開始。1、「三つの代表とは、どういうものですか、 誰が唱えましたか」 2、「ケ小平が果たした歴史的役割は何ですか」  3、「毛沢東思想の核心はなんですか」等々10の質問。

 むろん、1・2は流暢に答えた。しかし、3には頭をひねっていた。 「何と答えたらいいのですか」という彼女の眼差しに、申し訳ないとしか 言いようがなかった。自分で考えるしかない、僕も考えなくては、そう思った。 (2005.3.29)



 ■2005年3月20日、

     浦東実験学校
授業をしているのに、肝心の作者名が頭に浮かばない。ジリジリすれば するほど、ますます記憶の世界は遠のく。学生はイライラしている。

 ……などという夢で目を覚ましてみれば、まだ4時半。でも、暖かさが 熟睡させたのか、気持ちよくそのまま起きてしまうことにした。ともかく 暖かくなった。「春眠不覚曉」というけど、快眠ですっきり。

 でも、あの夢。どうしても思いつかなかった名前は、確か「孟子」であ ったような気がする。根っからの教師なのかなぁ!、と一人独笑。

 で、街をぶらり、「○○花園」といった比較的高級アパートが建ち並ぶ 地区にあった「浦東実験学校」というのが目につく。大きい、豪華、 そして学校らしくない。なんだろう、これは。

 道路沿いに掲げられた掲示によると、昨年9月から始まった小・中9ヵ年 一貫教育とのこと。そういうことで「実験学校」という名なのか。公立 小学校の年間授業料は、だいたい700元(約9000日本円、教科書代など 教材費は別)。その授業料が払えず、小学校にも通えない子供もいると聞く。 この実験学校も省立、いったいどんな小学生・中学生が学んでいるのだろうか。 (2005.3.20)



 ■2005年3月13日、

  農家・送電線・アパート
春の光が身体の奥までしみとおる。

 先週のはじめから、格段に暖かくなった。朝起きてみて、窓が凍結して いることもない。「チチチッー」とさえずる小鳥の声も、確実に春の来訪を つげている。

 とはいえ、5日間ほど風邪で寝込んだ。熱があり、咳が出て、筋肉まで 痛む。仕事以外は、ベッドに倒れこんだ。こんなに人間って寝られるんだ、 と再認識。

 やっとベッドからの自立を勝ち取り、「ほったらかしにして、どうしたん だい」と言う自転車で、のんびり東の農村へ。自転車がなかなか身体の一部 になりきれない。

 都市化の波のまっただなかにあるのだろう、農家は新興アパートと送電線 に迫られて、ぽつんとあった。 (2005.3.13)



 ■2005年3月5日、

     尾長鳥??
朝方は零下。しかし快晴の一日。

 ぶらり散歩にでかけて学院にもどってみると、市街地の中ではここだけ に数少ない緑があるからなのだろう、警笛にかわって小鳥の鳴声が 耳にしみてくる。

 声につられて青空を見上げれば、スズメを初めとしていろいろな小鳥が 目に入る。あちらにも、こちらにも、と数えてみると5種類以上はいるで はないか。

 高みをめざす、というのは鳥も同じなのだろうか。そこから見たら何が 見えるの?と聞きたくなってしまう。そこから飛び立って、空と溶け合って 一体になりたい。

 尾が体の半分ほどもある鳥なので、「尾長鳥」なのかなぁと勝手に思った。 しかし、帰宅し広辞苑で調べてみると、尾長鳥は日本にしか生息しないと ある。知らないことはあまりにも多い。 (2005.3.5)



 ■2005年3月4日、 大学から「学生によるネット上での授業評価表」なるものを頂戴する。

 そういえば昨年末、掲示で見かけたことがあった。授業担当の教師に対し、 ネットを使って評価するというものだ。外国人教師の僕には関係ないだろう と思っていたのだが、ちゃんともらえたというわけだ。その結果は以下の 通り。

 日本語専攻クラスは、学生32人で、
非常に満足:14、比較的満足:15、基本的に満足:2、不満足:1   ──というもの。

 第二外国語として担当している英語専攻の2クラスは、学生62人で、
非常に満足:25、比較的満足:26、基本的に満足:5、不満足:5、そして 「非常に不満足」が1人いた。

 この結果がどういうものであるかは、わからない。というのは、ネット上 でどのように行われたのか不明だからだ。匿名なのか、実名によって評価 したものなのか。それに、全体結果がどういう傾向にあるのかもわからない。

 そもそも、こういった学生による授業評価のねらいはどこにあるのだろうか。 教務部捺印のある「評価表」には、「教学改革をすすめ、教育内容向上を めざすため、前学期末全ての教科課程について学生によるネット上での評価 活動を行った。今ここにその結果を提供するので、教学上の参考にされたい」 とあるだけだ。

 目標はよしとしよう。しかし、学生による授業評価が、どのように目標に 結びつくのか、何一つ述べられていない。肝心なのはその点なのに、形だけ に走るのなら、それはエセ「民主」としか言いようがない。

 「教学上の参考に」と言われても、こちらは気を悪くしただけだ。教師と 学生間に亀裂を生むだけではないか。で、今にも泣きそうな顔をして、 「ぼく、どうしたらいいの」と女学生にたずねると、「ほおっておきな」と いうカラッとした返事がかえって来た。 (2005.3.4)



 ■2005年2月26日、

 「文化住宅」と高層ビル
3日間、鉛色の空がのしかかっていたが、今日は快晴。

 昨日夜遅くまで、『サウンド・オブ・ミュージック』をTVで やっていて見惚れてしまったので、バルコニーでうたたねをしてから、 青空に誘われ自転車の初乗り。しかし、中国語版『サウンド・オブ・ ミュージック』を観ることがあろうとは思いもしなかった。映画館で初めて みてから、ゆうに40年は経っている。にもかかわらず新鮮に映るのは、 歌と音楽のすばらしさだけでなく、一分の隙もなくストーリーが組み立て られていることによるのではないか?

 自転車で走りながら、そんなことをぼんやり思う。自分がわからぬまま 修道院にいる娘。軍隊方式でしか7人の子供に対応できない海軍将校。 どちらもある種の性格破綻者で自己喪失の中にいる。それが、子供たちと 音楽を通して自己回復していく。それはついに恋愛の中で自己へのゆるぎ ない確信となり、襲い来る凶暴なナチズムに郷土愛をもって対峙するに いたる……。

 むろんこの映画は、歌を無視できない。しかし、ストーリーは自己回復と 再生、そして自己の立脚点の獲得であり、歌はそういったストーリーぬきに は生きてこないのではないか。

 ……などと思いながら、自転車から見る街の風景は、1月から大きくは 変わっていない。たまたま見かけた古いアパートが、どこか昔の日本のもの と似ているように感じられて妙に懐かしかった。

 数十年前に建てられただろうこのアパートは、きっとその当時、最も近代的 なものであったのだろう。そして、むこうに聳える高層ビルの威容。自分が 信じていた筈の拠って立つものが確実ではないと感じた時、人はどうするの か。 (2005.2.26)



 ■2005年2月21日、 夜は冷え込むといっても、昼の日差しは春を感じさせる。

 春節の休みが終り、今日から2学期。学生諸君の顔を久しぶりに見ると、 思わず顔がほころんでしまう。「先生、ひさしぶり!」と言って、胸に飛び 込んできそうな学生が青島ではいたが、ここではしかし、いたってクール。 地方性によるのだろうか。

 「先生、子供さんは?」昼食を共にしていた女学生が尋ねる。来た来た 来た!「子供、そんなのいないよ。忘れちゃった」そしておもむろに学生の 顔を見つめ、「お父さん、お母さんだって、君のこと忘れてるんじゃない?」と迫る。

 プーンとふくれた顔がまぶしい。一人っ子政策の下、家族に守られ小さな 世界に安住している青年よ、荒野をめざせ!……とも思ったものの、まぁ、 そんなことしきっていない自分もいて、話題は即、日本食へと移っていった。

 ところで、その女学生、ダイエット中ということで、湯圓を食べていた。 これは、あんにもち米をまぶして茹でた汁と一緒に食べるもので、陰暦の1月 15日(陽暦で今年は2月23日)の元宵節に食する習慣がある。一つ頂戴すると、 口の中にほんのりとした甘さが広がった。 (2005.2.21)



 ■2005年1月14日、

 赤、赤、あかの匯通市場
試験も採点も終了。百点満点とはいえ、0.5点の問題もあるという生まれて 初めての試験問題で、いやはや作成・採点ともに疲れた。

 しかし、今日は風もなく暖かな太陽にさそわれて、町を散策。
匯通市場にでると、街は赤一色、春節 (今年は2月9日)が近いのだ。

 いろいろな人に決って聞かれるのは、「日本にも春節ってあるの」 という質問。今日だけでも、昼食時に学食で行き会った学生に聞かれ、食事後、 コピー屋で聞かれ、外事の先生に聞かれ、……と考えてみれば、出会った人は みんな聞いているではないか。

 それだけ、この国では春節が大切なのだろう。ここにあふれている 対聯などの赤の飾り物は、春節を区切りとして新しいものに取り替えて、 新たな年をいわうのだろうか。

 多くの人が着ているダウンジャケットは、黒物がほとんどだ。それに 対して、この飾り物のケバケバシさ、ハデハデさはなぜなのか。地道に生きて いる僕としては、圧倒され、どうも落ち着かない。 (2005.1.14)



 ■2005年1月7日、 今学期最後の授業が終了。ほっと一息。

 とはいえ、この学期の最後はかなりしんどかった。こちらでは陰暦の正月、 つまり春節で祝われ、1日の元旦はカレンダーだけのもの、ただ3日がその 代休となって3連休であっただけ。

 町の雰囲気も変わらないその3連休は、しかし、試験問題作成で費やした。 勝手の分からない場での試験作成ほど辛いものはない、としみじみ感じさせ られた。もしかすると、この一回の試験で学生の一生が決ってしまうかもし れない……と思うと、いくども修正せざるをえないのだ。

 でも、一応満足できるものができ、あれこれ世話になった日本語の先生 と今日はのんびり夕食。楽しいひとときだった。

 ところで、「日本語の先生」といっても、ここでは僕も含めて5人しかい ない。4人の若い中国人の先生方が主力だ。その中のカップルである二人 と今日は夕食を共にしたのだが、僕にとっては驚くべきことを耳にした。

 一人の先生のご両親は元々天津の人で、あの文革の最中、1960年代末期の 上山下郷運動の中で、天津から両親共々、この淮安に来たというのだ。10年 前もそうだったが、その頃は、とても貧しいところであったという。

 現代史がこの地でも息衝いている。あたりまえのことだが、そのことに あらためて圧倒された。

※「上山下郷運動」とは、毛沢東の「知識青年は農村に入れ」というアピー ルに沿って数百万人に及ぶ学生たちが辺境・地方へ赴いたもの。多くの問題 があったようだが、この世代のエネルギーが今もこの国の底辺にあるように、 僕は思う。 (2005.1.7)



 ■2005年1月1日、

    7時半の太陽
凍てつく中、初日を迎える。窓という窓は凍りつき、開けようとして もびくともしない。外は一昨日の雪が固く凍結している

 でも、元旦の今日は快晴。久しぶりに太陽をおがもうと、6階までかけ のぼって初日をシャッターオン。でも、もう太陽はのぼりきってしまって いた。暗い中、まだかまだかと日の出を待つ忍耐が必要だったのだ。そして その時が一番さむいのだが……。

 目を転じて見ると、日中間はとめどもなく凍てついている。日本という国 を考えれば、敗戦以後のさまざまな遺産を食いつくし今やジリ貧、ブッシュ 政権にシッポを振る堕落したナショナリズムばかりがはばを利かせている。

 「日本は亡びるね」と断言した広田先生(漱石『三四郎』)の言葉が、 斬新に思える。

 寒い。お屠蘇代わりに老酒(加飯酒)を、お燗しよう。 (2005.1.1)



 ■2004年12月30日、

    雪の学院風景
朝、出かける時になってが降っていると気づく。どうりで昨晩は 冷え込んだわけだ。

 エアコン暖房とはいえ、それなりに部屋は暖まっていたのに、朝方、寒くて 早く眼が覚めてしまった。外を見ることもないまま、いつものように7時 15分に教室へと向かい初めて雪を知ったというわけだ。

   元気な学生諸君

 ここ、淮安では教室に暖房がない。このあたりが、青島と大きく違って いる。青島は、ずっと寒い。しかし、スチームが教室や学生の部屋など全て に行き届いていた。淮安は、東京とほぼ同じ寒暖と思われるが、暖房は行き 渡っていない。

 ともかく寒い。教室では、普段の二倍の速度で歩き回らなければとても 身体を保てなかったし、部屋のエアコンも効きが悪くダウンジャケットを 欠かせないでいる。 (2004.12.30)



 ■2004年12月23日、 昨日は一番の寒さ、今日も朝は零下だったようだ。

 クリスマスということで、夕食に招宴された。アメリカ人、イギリス人、 オーストラリア人という中で、今日も英語に攻められるかなぁ、と覚悟して いたのだが、ロシア人の若い女性留学生がいたことで救われた。

 ナターシャという通名の彼女は、留学生。だから当然のこと話すのは 中国語。わずか勉強して2ヶ月余というのに、随分話せる。同じ20歳代の イギリス人外教(外国人教師のこと。中国ではこう言う)が懸命に中国語で 話しかけているのがおもしろかった。彼は、中国語歴半年なのだ。

 ナターシャといえば、トルストイの『戦争と平和』ということで、早速 もちだしてみたが、今ひとつ反応がない。ただ一つ、しっかり教わった のは、「トースト」。「乾杯」を、ロシア語ではこういうのだそうだ。 ちょっとさみしかった。 (2004.12.23)



 ■2004年12月21日、 冬至の今日は朝から曇り空、昼頃から小雨がポツリポツリ。天気予報では、 1℃〜6℃ということだったが、この冬一番の冷え込みとなった。無理は しないし、できないので、こんな日は部屋でのんびり。

 ところで、昨日、『記憶の証明』という連続テレビドラマが終 わった。ふだんほとんど観ることのないTVだが、これだけはきちんと みつづけた。29回もので12月5日から毎日2回ずつ45分づつ放映、こういった 放映スタイルは見習いたいものだ。

 画像とあらすじを紹介した
このサイトでいくらか雰囲気は分かると思う。60年前、日本の 倉津島というところに強制連行され捕虜として秘密軍事基地建設の苦役を 強いられた中国・朝鮮人兵士の物語である。

 「反日ドラマ」といったレッテルを貼り無視するのはたやすい。だが、 それはドラマの一面、現在を生きる二世代下の日中青年男女が、倉津島の 真実を探求するという舞台装置を無視してはならない。ドラマの中で、二人は 国家や民族という壁をのりこえようとしている。ここに制作者のねらいが ある。

 王偉光(土匪出身の捕虜役)、段奕宏(元国民党軍将校で中国・朝鮮人側 捕虜大隊長役)の演技が光っていた。音楽(担当:三宝)もいい。そして 何よりもいいのは、29回総計20時間にも及びながら、ドラマ構成力により 息をもつかせず見せるものになっている点だ。

 なお、このテレビドラマは制作に4年、検閲に1年半要したという。 国家の枠内で国家意思とは異なる(かも知れない)ものを織り込むためには、 それだけの時間がかかるということなのだろう。 (2004.12.21)



 ■2004年12月16日、

    猫ちゃんたち
曇天ですこし冷え込む。と、いっても青島にくらべるとずっと暖か。400km ほど南のここでは、寒くてどうしようもない、という寒さではない。

 夕刻戻ると、猫ちゃんたちが下の庭でたわむれている。合計5匹、 みんな白猫で、どうみても一族。しめた!と2階の部屋にかけのぼり、 さっそく上からスナップ。こちらの視線にきづいたのか、その後ずっと 見つめられてしまったが、こちらはなぜか自然にうなづいてしまう。 猫の持つ説得力というものなのだろう。

 それに比べて、伝え聞く日本の小泉首相の説得力のなさ、どこまでブッシュ に追随して日本をめちゃくちゃにするのか。きちんと答弁せぬ姿勢は、人を 馬鹿にした独裁者のそれだ。

 猫たちは何故、ああも高貴なのだろうか。 (2004.12.16)



 ■2004年12月14日、

    仕事三点セット
寒さとともに学期末が迫ってきた。こちらは二期制で、1月中ごろまでが 第1学期なのだ。僕も最後の追い込みに入っている。

 そこで今回は、日常生活必需品について書くことにしよう。まずは、 仕事三点セット。お茶入りマグカップ・黒板消し・ハンカチ、この三つは 教室へ馳せ参じる際、欠かせない。美しい日本語は澄み切った喉からと いうことで、まずお茶。ついで、きれいな板書はきれいな黒板からという ことで、黒板消し。そして、清潔なる手を保持するためのハンカチ。

 「随郷随俗(郷に入りては郷に従う)」が僕の信条、しかし、醤油とこの 黒板消しだけは、こちらのものではとてもやりきれない。黒板消しは、 「黒板擦」とこちらでは呼ぶ。読んで字の如し、黒板をこするものなのだ。 よって、チョークの粉は黒板に拡大する形でこすりつけられるだけ、吸収 されることはない。やむなく持参した100円ショップの黒板消しも、ついに すり切れつつある。

 テレビで、中学生の発明工夫を紹介する科学教養番組があり、黒板消しに 関するものがあった。だが、それは「擦る」ことによって生ずる粉をいかに うまく溜めるかに工夫の焦点があり、「吸収する」点に目は向いていなかっ た。

     拖把

 どうやら、黒板消しに関する限り、「擦る」文化と「吸収する」文化と いった差が日中間に横たわっているようだ。

 ところで、僕の部屋はフローリング、掃除に使っているのは右の 「拖把(モップの意)」。掃除に興味がないので日本にこういった製品が あるかどうかは知らないが、これは掛け値なしに便利。円柱状のスポンジに 水をつけ、下の部分にあるレバーで、水を絞れるようになっていて、実に 気楽に水ぶきができる。

 さて、この拖把は、スポンジの「吸収する」点に着眼していること はいうまでもない。となると、黒板消しとは矛盾することとなり、今また 僕の悩みは一つ増えてしまった。 (2004.12.14)



 ■2004年12月9日、 今日も、授業でおもいっきり決めた! あの英語 専攻クラスでのこと、今日は「……は……が好きです」を扱い、一通り 説明してから、では練習しましょうと「私は先生が好きです」を口頭伝授。 学生はとにかく練習のため、そのまま「私は先生が好きです」と繰り返す。 シメシメ。1回、そして2回目になって、その意味に大半の学生が気づき、 「エーッ」と場内騒然。

 やったーっ!と、こちらは満面の笑み。

 といって、仇敵関係にあるわけではない。今日はちょっと冷えたので マフラーをしていくと、「好帥!(イカス)」などと言われたり、休み時間に は、「先生って、中国の厳順開にそっくり!」などとおだてられたりした。

 厳順開ってどんな人か知らないので聞くと、「とってもとっても有名で中国 人で知らない人はいないの。とてもすてきな芸能人なのよ」という。年齢に ついて尋ねると、「先生と同じくらい。先生28歳だって言ってたでしょ」と これまたなかなかいい答が返ってくるではないか。

 いい学生たちだ、純にして人の心が分かっている……、と心が洗われたよう な気持になって帰ってきた。そこで、さきほどその青年俳優・厳順開の顔を 一目見ようとgoogle検索してみた。いったいどんな二枚目なのだろう?する と、こんな 厳順開 が出てくるではないか。喜劇役者で相声小品(一人漫才)を自作自演、 年齢はなんと68!

 いやはや、これには負けた。また作戦を練りなおせねばならない。 (2004.12.09)



 ■2004年12月5日、

  メーターは4444.4km
40kmほど走ってきた。日曜日のしかもお昼どきで、車も多くない。それに 晴天、何も言うことなし。自力で風を作る心地よさは、自転車ならでは のものだ。

 ただ、走行中気になったのは、サイクルメーターの積算距離。 4405kmから走り出し、もしかすると、戻ったその時に4444kmになる のではないかと……。「よしみ」にかこつけて4430kmで戻ろうか、 とも思ったが、快適さがそれを許さない。

 もともと、そんなジンクスめいたものを信じることなどなかったのだが、 同じ数字がずらっと並ぶ瞬間というのには、やはり興味がある。あれはどこ を走っていたときだろうか、9999.9が一挙に0になるというその時は 走りながらずっとサイクルメーターに目を凝らしていたものだ。

 それに比べれば、今回の4444.4の後は連続していくわけでどうとい うことはない。とはいえ、その時、自転車を止めてサイクルメーターを アップで撮影している自分の姿があった。 (2004.12.05)



 ■2004年12月2日、

 午後1時半の淮海西路
走りながら思った。やけに車も人も少ないのだ。かんがえてみると、時は昼、 多くの人たちは昼食を取り、そして昼寝をしているのだろう。

 小中学校も、高校も大学も中国では昼休みが長い。2・3時間はあるのが 普通。小中高生は一度帰宅し、また登校する。だから、小学校の付近は迎えの 父母で11時頃からごったがえしている。一日二度も送迎をくりかえすのだから、 お父さんお母さんもたいへんだ。

 ということで、学生も昼食後に昼寝するのが普通。僕はというと、好天なら
ベランダ・サンルームで、のんびり、その果て にいつのまにか鼻ちょうちんをふくらませていることが多い。なかなか 快適なのだ。

 とはいえ、恐怖感なしに街を流せるこの時間帯をほっておくことはない。 快適な道路、快適なサンルーム、二つの快適さの中で、僕の悩みはまた一つ 増えてしまった。 (2004.12.02)



 ■2004年11月27日、

   古黄河広場の凧
秋晴れの天気、北へ向かって走ってみた。おだやかな南風、身体もしなやかに 緩む。
古黄河を渡ると古黄河広場、 が青空に舞っている。まるで、空と風を楽しんでいるようだ。さっそく、 ズームアップ、その中に仲良く並んでいる凧はどうやら関羽さまのようだ。

 中国の凧はたくさんの種類がある。しかし、足がないという点では共通 している。関羽の場合、その髭が足の代わりをしているようにも見えるが、 これは数少ないのでは。それにしても、どうやってバランスを取るのだろう。 足もないのに、よく飛ぶものだ。


   綿花庄鎮農村風景
 それに、あの関羽はいったい何を見ているのだろう。あの高さ、爽やかな 陽光、いい具合の南風、何を考えてるのかな。西側には 韓信が馬で進軍中だし。

 ……などと走りながらボンヤリ思っているうちに、収費站(料金所)にぶつ かった。どうやら自転車で走っているこの道は、省道で有料であるようだ。 これはいけない、といきなり現実に戻されて、右にそれ、農道に入って撮った のが右。作物の名前が分からないのが、ともかくさみしい。

 帰路に「綿花庄鎮」という地名が目に入ったが、あれは綿花である筈は ないだろうし、……、と頭の中は???でいっぱいのまま戻ると、はやくも 太陽は傾きつつあった。 (2004.11.27)



 ■2004年11月26日、

    匯通市場
今日は寒い。昨日午後に雨が降り、ぐっと気温は降下した。今朝になって 晴れわたったとはいえ、風は北風、身体はすぼむ。

 といって部屋に籠もりたくないので、仕事を終えた午後4時、匯通市場 をぶらつく。この匯通市場というのは、一言でいえば問屋街、日用品・ 衣料品から電気製品まで、ほとんどのものが揃っている。個人客向けにバラ 売りもする。ともかく安い。
リクライニングチェアー もここで購入した。

 画像では、ごちゃごちゃしているだけのようだが、何を隠そう、実際その とおりなのだ。しかし奥は深い。道筋のみならず、一歩中へ入ると、ずーっと 小さな店が続いていて、迷路に入り込んでしまった感じになる。電気製品の 小物を扱っているところなんかは、往年の秋葉原、ラジオセンター・ラジオ デパートの雰囲気を彷彿させる。

 とはいえ、この匯通市場、淮安市の中心にある淮安汽車総站(バス中央 ターミナル)のすぐ隣にある。つまり、日本で言えば敗戦後、こちらで言えば 解放後のかなり昔に始まった闇市(めいたもの)の延長上にあると推測される。

 すぐ側には、新しい近代的なショッピングセンターが軒を連ねていながら、 なお上野のアメ横風の、秋葉のジャンク街っぽい、得体の知れないものを 漂わせた古い問屋街があるのは面白い。そんな混沌こそが、実は一番健康なの だろう。 (2004.11.26)



 ■2004年11月21日、

 大きな周恩来記念館

周恩来像の前で記念撮影

周恩来像は7.8m
すでに行ったことのある
周恩来記念館に 学生たちと出かける。僕は担当していないのだが、一年生から誘われたのだ。 てっきり気楽なクラス単位の自主的なイベントかな、といったぐらいの気持 で誘いに応じたのだが、実は、大学一年生向けのカリキュラムの一環で あった。

 大学の専用バスから見ると、自転車で走りなれた道路の脇を流れる里運河 がはっきり見える。自転車は視点が低いのだけが欠点だ、とぼんやり思った りしていると、そばの学生が大きなみかん(よく街で見かけるのだが大きす ぎて食べられないので買ったことがなかった)を剥いてくれる。甘い、でも すっぱい、昔の日本の夏みかんのような味でなつかしい。

 周恩来記念館に到着すると、ガイドさんが熱心に説明をしてくれる。 その説明の要所要所、たとえば「周恩来総理は78歳で亡くなったので、 その像は7.8mになっています」といった所で、声を上げ溜息をつく学生 たちはまるで中学生のようだ。

 すれていないと形容すればいいのだろうか、ともかく純真なのだ。もちろん その純真さは、この後に訪れた周恩来故居 に到着するや、パン屋に殺到して食べ物を手にする──といった点にも見ら れるのだが、ともかくほほえましい。

 しかし、入場券代を払っていない僕は気がかりでたまらない。で、それを 聞くと、愛国教育の一環で無料との事。そういえば、「愛国教育基地」という 表示があった。

 こういう「愛国教育」は、アイデンティティを若い人たちにどのように 持たすべきか、腐心するなかで行なわれているように思えた。とはいえ、 「愛国」と「攘夷」は紙一重、不合理・圧制に抗する「愛国」は是の面 が大きくても、昔の日本のようなえらぶった「愛国」だけは御免だな、と 夕陽の中の帰途、思いながら帰ってきた。 (2004.11.21)



 ■2004年11月19日、秋晴れの好天がつづいて いるが、あいにく今日は午後も授業。ということで、ここでのメディア状況 について触れる。

 最近、よく読む新聞は、
揚子晩報。名前から分かるように南京発行の夕刊紙。タブロイド版で、 今日は60面あった(日によってちょっと異なる)。値段は、5角(日本円7円弱) と安い。

 今日の揚子晩報で、目を引いた記事は、
・日本が、下地島に潜水艦対策基地設置を考慮中。(18日の日本報道による)
・人民元が空前の切り上げ圧力に遭遇。
・早朝、ネットカフェで高1学生が血を流して昏倒。
・犬肉売買市場を記者直撃。不明死体犬肉が一晩で数百匹も売買。
・エリザベステーラー、長期の病床生活へ。
・張芸謀『千里走単騎』撮影開始。高倉健、姿を現わさず。
……といったもので、夕食を食べながら、流し読み。

 広告も豊富。「解毒通淋丸」「男性器官再生素」と踊る漢字の世界、 人民解放軍経営の八二医院(僕のとこから徒歩5分)が、「冬の衣装は肥満を 隠してはくれない」と題する整形美容外科の広告をセミヌードの女性写真と ともに掲載していたりする。

 う〜ん、70年代の人民日報で中国語を勉強した世代としては、その違いに 驚嘆しなければならないのだが、しかし、ここは人間くささに一票。 ちなみに、一昨日の同誌では、
・裴勇俊がガールフレンドと別離。(裴勇俊とは、例の『冬のソナタ』の ヨン様、中国でも大ヒット)
・河南省で黒社会の親玉が裁判に。
……といった記事が載っていて、ベッドまで持っていって読んでしまった。

 こういうと、『日刊げんだい』とかスポーツ紙に近いようだが、日本の 新聞とはっきり違うのは、
@全て署名記事。責任が明確だ。
A「事件を知らせて!」と読者に呼びかけている。しかも、呼びかけに 答えて取材した記事には、教えてくれた人に対する報奨金の額まで記されて いるまめまめしさ。

 テレビをあまり観ないので、ほかにNHKの日本語海外向けラジオ放送、 asahi.com、それから天木直人・マスメディアの裏を読むが、今の僕のだいたい の情報源。だいたい、後ろにいくほど頷くことが多い内容だ。 (2004.11.19)



 ■2004年11月16日、


先週の雨で一気に寒くなり、昼はダウンジャケットが、夜は布団が必要な 季節が来た。

 だが今日は好天、
寧連公路(NingLian Highway)を試走してきた。10kmほど走るうち、公安(警察)の車が何も言わずに追い越 していったところからみると、どうやら自転車OKのようだ。シメシメ!

 といっても、南京まで182km、そこで降りてもどることにした。農村の中を 走っていて目を奪われるのは、新しく造られた道路と街路灯。白いポールの 街路灯が道路をふちどるようにして、ずっと向こうまできれいに 並んでいるのを見ると、その道をどこまでも走ってみたくなる。



 そして、その街路灯は道路によってスタイルが異なる。単純な機能性を 追求したものから、街に夢をもたらそうという狙いが感じられるもの、そ して遊び心たっぷりのもの……。

 青島でもそうだったが、ここ淮安でも道路とビルがどんどん造られている。 それはおそらく中国のかなりの土地で共通したことなのだろう。そんな 建設ラッシュの中で、意匠を凝らして街路灯を設計している人たちがいる のだ。



 東西南北にそれぞれ10kmというのが、ここ淮安市街地のおおまかな見取り図 といっていい。2ヶ月余り自転車で走りながら、昔のコンピュータゲーム、 SimCityを思い浮かべて、「ここに工場はだめ」「火葬場は北ではなく南が いいのに」などと思っては、いつも決って「ゴジラは出るのかな?」でシメ になるのだが、都市建設という未来像を描きながらの計画は、とても難しい ものだとつくづく思う。

 しかし、その昔、毎日東京を走りながら、街路灯に目が向かなかった のはなぜだろう。 (2004.11.16)



 ■2004年11月14日、

    VCDポスター
午後になってやっと雨があがったので、郊外を走ってきた。この4・5日、 ずっと小雨模様だったので自転車も喜んでいる。

 いつのまにか古黄河の西側をめざしていたが、残念、道と古黄河は並行 していることと判明、ノリでは行けないと分かって今回は断念、農村を のんびり走ることにした。

 ふと、ポスターが目にとまり撮ったのが左。なんのことはない、VCD 屋のポスターだ。でも、どことなく懐かしい感じがする。土と埃だらけの 農村の中に、なんとも不似合いなVCDのハデなけばけばしい世界。 その不釣合いさも文化というものだろう。

 小さな店には照明もなく、薄暗い奥には何かもっといかがわしいものさえ ありそうな感じがする。むろん僕は中に入ることもせず、ただ外から 眺めるだけだったのだが、好奇心をくすぐる道具立てというものを思った。 (2004.11.14)



 ■2004年11月9日、

    古黄河(東側)

    古黄河(西側)
薄曇の天気だが、
古黄河の東側を訪れて みた。またまた水を求めて、ということになる。

 街の東側には、虎とライオンの絵が描かれた「野生動物園」といったもの もあるが目もくれず、10kmほど走ったところで、古黄河と遭遇。

 ちょうどお婆さんが、川にかけられたワイヤーを手で繰りながら小船で 対岸に渡ろうとしていた(右)ので、「Huanghe ma?」とたずねると、 「Huanghe」と声が返って来た。

 「黄河之水天上来」というのには程遠い細く静かな流れ。しかし、 あの向こうには何があるのだろう……と思わせる力だけは、失っていない ように思われた。 (2004.11.9)



 ■2004年11月8日、 今日はやった〜!

 というのは、授業の中でのこと。英語専攻の学生向けの初級日本語 も担当しているのだが、このクラスがもう大変。お茶目でおしゃべりで、うる さくて、そのくせ変な団結力が強くて、授業ボイコットもどきで挑発してくる ありさま。

 男子学生ばかり相手にしていたおじさんとしては、もういたたまれなくて、 ある時などは寝ながら涙を流したほど(嘘!)。ということで、英語専攻である ことに目をつけ、「へ」は"to"、「と」は"with/and"などと好奇心を引こう という戦術に出たこともあったのだが、格助詞がきちんと前置詞に対応して いる訳でもなく、壁にぶつかりつつあった。

 そこで次は、たった2人の男子学生に着眼、女性30人に圧倒され鬱屈した 日々だろうと推測、共同戦線をはろうと試みたのだ。だがこの2人、女性へ の心の傾斜があるのか、こちらの誘いになかなか乗ってこない。(裏切者め!)

 そこで今日は作戦変更。これまでの失敗原因は、すべて学生の気を引こう とした所にあったと反省、大胆に攻撃に出ることにしたのだ。


     学院風景
 折も折、テキストは、動詞「あげる」「もらう」に突入。誕生日が近い 女子学生向けに花束を用意、突如「誕生会を始めます」と一方的に宣言、 ハッピバースデイ・ツー・ユーと勝手に大声で歌いながら、花束贈呈へ。 そして、「みんな英語専攻ですね。アメリカ人の女性は、こんな風に プレゼントをもらった時、どうしますか」と言って、僕の右頬を差し出した……。

 キョトンとしていた女子学生達、僕の言葉に、「キャーッ、エッチ!」 と騒然!「エッチ」と言ったかどうかは実は定かではないけれど、おじさん の僕でもいくらかは彼女たちに波紋をもたらすことができると知ったのは、 収穫だった。常緑樹が多い学院だが、色づいてきた木もあって何だかエール を送られているような気がした。 (2004.11.8)



 ■2004年11月6日、

   京杭大運河(南側)

   京杭大運河(北側)

 大運河と並行する里運河
爽秋の一日。
京杭大運河の逆側はどう なのか、気になっていたので出かけてみた。大運河追跡作業の続編 である。

 つまり、今日は北京寄りではなく、その逆の杭州寄り(といっても杭州は 遥か彼方だけど)を追跡してみようというのだ。地図によれば、大運河 はこの淮安市街地東側で折れて南下している。


      寧連公路
 10qほど南へ走る。だが、大運河を望めるはずの道は高速道路であると 判明。世の中、思い通りにいかないものだ、ブッシュも再選されるし、 しょうがない、今日は走る楽しさしかないか、とあきらめてそのまま 南へ。このまま走れば楚州区呉承恩故居をしっかり 訪ねるのも人生か、と考え始めたのだが……

 まてよ、あの高速道路、自転車で走っている人がいなかったか!?と頭の中 に、自転車で高速を走っている像が広がって来たのだ。もしかすると……。 「もしかに賭けるんだ!」

 その通りだった。この寧連公路(NingLian Highway)は、南京─連雲港を 走る高速道路(「寧」は南京のこと)。しかし、自転車でサイドを走っても いいようだ(右下)。そこで早速、おじさんの自転車についてインターチェンジ を上がり、はずむ心で大運河へと爆走。高い位置から見下ろす形で撮ること ができた(左2枚)。また、大運河は今なお水運の現役だが、この辺りを並行 して少し小幅の里運河が静かに流れて いた。おそらく大運河の支流でこのあたりの地域だけを流れているため、 こう呼ばれているのだろうと思われた。

 それにしても、高速道路を自転車で走れるとは素晴らしいことではないか。 その昔の1987年8月16日に、「岩沼→福島→郡山→那須→矢板」間195.6kmを 1日で走った(「風に吹かれて」参照) のが僕の1日走行最高記録だった。もし、信号のない高速道路を自転車に 開放してくれたならきっと200km走ってみせる!というのが当時の夢。 十数年経った今、その可能性が見えてきて、二つの運河を見ながら、ひさしぶり にムクムクとした気持がわいてきた。 (2004.11.6)



 ■2004年11月2日、

  周恩来童年讀書舊址

       里運河
7時半から9時までの仕事がおわって、今日はフリー。外は秋晴れ、試験だ なんだと仕事の鬼でいるばかりが人生じゃなかったろ、という自転車の声に うながされ柔らかな日差しの中をゆったり走る。

 そういえば周恩来ゆかりの場所が近くにあったことを思い起こし、行って みることにした。周恩来は12歳まで
故居にずっと いた訳ではなくて、清江浦にもいたことがあるという。

 現在そこが周恩来童年讀書舊址(左)として保存されている。 里運河沿いの淮安市漕運西路にあり、僕のところからはほんの数キロだ。

 石造りの門には李鵬の手による横額が掛かり、中は四合院の造り。6歳の 1904年に父母・継母と共に外祖父の家であったここに移転、10歳まで住んで いたという。その間、外祖父の蔵書から四大奇書・『説岳全伝』『鏡花縁』 といった書物を読んだとのこと。

 分かりやすい絵と共にそんな展示がされていた。目を引いたのは次のよう な下り。「1907年、生母が他界。生前、彼女は家族内のもめごとの調停役を 担い、その能力が後に周恩来に影響した」

 ボケとツッコミだけでは、世の中、動かない。となると、現実を動かす まとめ役が必要となる。と言っても、いいとこどりばかりするまとめ役が 多すぎる。そして、ますます現実は回避されてしまう。周恩来は明らかに そんなそんなのとは違っていたが……。

 などと、思いながら里運河(右)沿いを帰って きた。 (2004.11.2)



 ■2004年10月31日、

  「呉承恩故里」入口

  「呉承恩故里」の街並み
洗濯も仕事もすませ、ネスカフェと運動靴も購入して一段落。暖かな日ざし に誘われて久しぶりに楚州区へと自転車で向かうことにした。 数日前は北風が吹きかなり寒かったが、今日は太陽にそっくり身をまかせ たいような午後、ほっておいていい訳がない。

 今日の目的は一つ、呉承恩故居
9月に たずねたところ、改修工事中ということで行けなかったのだ。

 ところが「淮安市呉承恩中学」という学校はすぐみつかったものの、なか なか呉承恩故居にはたどり着けない。やっと見つけたのが、 「呉承恩故里」だった。大通りに面して左のような門構え、上には 右から「呉承恩故里」とあり、その左右には、「楚風淮水述誌異怪 千載推薦呉承恩」・「東土西天降妖伏魔萬方傳頌孫大聖」と書かれている。

 門をくぐって行くと、風情ある街並み(右)がつづく。造られてからせいぜい 10年ぐらいの新しいものだが、そういう街並みを造ろうという気持が伝わって くるものだ。

 しかし、肝心の呉承恩故居は見つからない。改修工事中という場所 すら分からなかった。孫悟空に「またおいで!」と言われてるようで残念だが、 日も傾きつつあり、「またね!」と言って帰って来た。

 ※帰って、香田さんの死を知り、残念な気持で一杯。また本人と家族への いじめが再燃するかと思うと、ますますいたたまれない。だが、イラク戦争 の本質は一つ。日本は誤った選択をしたのだ。よって自衛隊を即刻撤退する ことだけが日本という国家を救える道だ。 (2004.10.31)



 ■2004年10月21日、

  ベランダ・サンルーム
東京は台風でたいへんだったそうだが、ここは穏かな秋晴れがつづく。淮安 は比較的緑が多いとはいっても、日本のように降雨量は多くない。台風はご めんだけれど、木々にもっと水をあげたい気分になる。

 ところで昨日、リクライニングチェアーを購入した。ベランダ がサンルームになっているので、さっそく昼寝としゃれてみた(右)。 この時季でも短パンにTシャツでくつろげる心地よさよ。

 こういったサンルームは、中国の公寓(アパート)では標準的。日本では、 建築基準法のからみでベランダに建造物を置けないし、ましてサンルーム化 は普通ダメのはず。世界で一番いい場所が物干し場と非常時の避難経路と いうのは、消費者中心じゃないなぁ、とぼんやり日本のマンションのことを 思った。

 なおくだんのリクライニングチェアー、よく見ていただけると分かるように が使われている。淮安では、竹製品が目につく。今は懐かしい 「竹の洗濯バサミ」も、ここでは現役。 (2004.10.21)



 ■2004年10月17日、今日は曇り。そんな こともありネット検索をしていると、この淮安に関する情報が 日本語で見られることに気づいた。そのいくつかを挙げると……
  「
大運河の真珠――淮安 (北京週報)
  「 安作璋著『中国運河文化史』を検証する (チャイナネット)
  「 千年の唐代の古井が発見さる (チャイナネット)

中国語簡体字では、こんなページもあった。
  「淮安市 (中国行政区画網)
  「江蘇・淮安 (新華網江蘇頻道)
  「 淮安概述 (江蘇統計信息網)
  「中国淮安 (中国淮安政府網站)
(2004.10.17)



 ■2004年10月16日、

   二河(新閘渡口で)

   二河(渡口より西で)
あの工場が乱立していた京杭大運河の先はどうなっているのだろう、 という気持が湧き上がって、行ってみた。そう、一週間ほど前の
10月10日に書いた京杭大運河は、やはり気に なるのだ。手元の地図では、工場の西の先で北上することになっている。

 北京までは行かないんヨ、と悪路の中を自転車に言い聞かしつつたどり ついたのは、ゆったりと流れる運河。渡し場があって、舟はいま出たばかり。 そばの艀(はしけ)にいた女性に聞くと、運河ではなく、二河という名 の川だという。

 う〜ん、どうなっているんだろう。地図からはもうはみ出していて、 皆目見当が付かない。そばに「渡口守則」という看板があり、はじめて ここが新閘渡口という渡し場で、城南郷にあることが分かった。運河に合流 しているのかな?と好奇心にそそのかされて、もっと西へと自転車を進める。


   城南郷農村風景
 しかし、二河は二股に別れ、それ以上沿岸を進むことは できなかった。といっても、悔しくはない。水のゆったりしたりした様を 目にすると、「逝ク者ハ斯クノゴトキカ……」という高踏的な気分になるから だろうか。

 一気に走り抜けてきた帰路の農村では、米の収穫をほぼ終えて、広い農地 にポツンといるヤギさんが目についた。せっせと食べるのに忙しかったけど、 「メエ、メエ」と言うとこっちをキョトンとした目で見てくれたので、即 シャッターオン。 (2004.10.16)



 ■2004年10月15日、

    自転車タクシー
ずっと秋晴れの日々が続いている。やっと仕事を終えて週末、そこで夕方に なる前に、町をウォッチ。

 ここ淮安名物の一つは、自転車タクシーである。青島では、ずいぶん バイクタクシーのご厄介になったけれど、ここは、自転車タクシー。橋の あたり以外は坂がない平地だから流行っているのだろう。乗客としても、 安価で、風を感じられて、また人力車のように良心の痛みを感じない 手軽な乗り物だ。

 残念ながら、僕は自転車があるので、誰かと一緒の時にしか乗っていない。 でも、日差しが強いとパラソルが開くようになっていたりして、工夫され ている。しかも、自転車はギアまで付いている。


    電動自転車
 乗り物であげておかねばならぬのは、電動自転車だ。右の画像で女性の 乗っているのも男性のもそれ。青島ではほとんど見かけなかったが、ここ では電動車がトレンディ。専門ショップもあり、日本円で2万円くらいから、 自転車風のもの、スクーター風のものとある。3時間充電で20〜30q走行 可能というのがほとんどだが、80q走行可能というのもあった。

 だが、この電動自転車、僕のような自転車愛好者にとっては非常に恐い。 排気音もペダル音もださず、忍者のように後から追い抜いていくのだ。 しかも無免許、こわい運転、時速30q台すべて合法。

 でも無公害であるという点は、否定できないので、一瞬の恐怖に おののきながらも、そっと見送ることにしている。といっても、若い女性 の場合は、「自転車の方がダイエットにも健康にもいいよ」と思わずつぶ やいてしまうのだが。 (2004.10.15)



 ■2004年10月13日、昨日の新聞が気になって 読み返してみた。その新聞とは『現代快報』、南京発行のもの。快報記者・ 宮靖と記された署名記事だ。江蘇省の省都は南京、よってこの淮安もメディア は南京のものが多い。

 記事の題名は、「南京大虐殺という歴史的事実の埋没を救おうと 奔走する教授・費さんの定年生活」。内容は、南京近郊の湯山地区に住む既に 定年退職した費仲興教授が、同地区の南京事件被害者90名にインタビューし、 記録としてまとめた、というもの。

 南京師範大学南京大虐殺研究センターの張連紅副主任が、「解放後、政府と 学者がこの地区の日本軍暴行について幾度も調査し、虐殺が行われたことにつ いて了解していた。しかし、日本軍が具体的にどのように暴行をしたのか、 研究の余地はあり、費仲興の仕事はたいへん有意義だ」と評価しているとも 述べられている。

 南京事件については、中国側で細部にわたって調査しつくしたのだろう、 と思っていたのだが、そうではないようだ。全体として、過去の事実を事実 として掘り下げなければいけないという記者の気持が、伝わってくる記事 だった。

 タブロイド版一面の記事の終りの方には、こんな内容が書かれていた。 「日本でも普通の市民が南京大虐殺にたいへん関心を抱き、多くの人々が自費で 南京を訪ね調べている。大阪の教師・孫岡環氏は十数回にわたり日本市民と共 に真相を求めて南京を訪問、湯山地区一体までも訪れた」

 最後に記事は、南京師範大学南京大虐殺研究センター・張連紅副主任の次の ような言葉でしめくくられていた。「南京大虐殺を詳しく調べるのは、けっして 日本の右翼に反撃するためではなく、歴史を明らかにして、後の人々が平和と命 と良き生活を営むためなのです」

 国家や民族といったもろもろの垣根が、人間の邪魔になっている──と思う 僕には、公平でよく分かる記事だった。 (2004.10.13)



 ■2004年10月12日、

  清浦橋の里運河
青島と淮安の違いは、ここには樹木の緑と運河・古黄河の水があると いう点にもある。街を走っていて、緑が目にしみ、橋では水に見とれる。青島では 川らしい川に出合ったことはなかった。

 食べ物にも若干の違いがある。青島では秋刀魚などの海魚を食べられたが、 ここでは川魚ばかりだ。それに、量り売りしていた落花生が、ここでは 袋に入ったものしか手に入れられない。落花生によって基礎的生活能力の 向上を試みる、といったことはできにくいのだ。

 果物は、リンゴが出始めた。20年ほど前の中国のリンゴは、小さくて 酸っぱくて素朴な味がしたものだった。しかし、青島でもここでもリンゴは すべてフジ。市場経済は商品の画一化しかもたらさないのだろうか。 すっぱかった昔の國光、芋のようだったインドリンゴが食べたい。

 なお画像は、9月30日に撮影した里運河を西へ2qほど下った(上った?) ところのもの。 (2004.10.12)



 ■2004年10月10日、

    京杭大運河
この5日間ほどウィルス対策に追われてしまった。学院LANは便利な反面、 思いがけぬプレゼントを頂戴するものでもあった。

 穢れなき身となり、験直しに淮安市の西側を走ってみた。山があれば、 あの山をめざそうとなるし、海があれば海岸を走ろうとなるのだが、ここ では、なんとも目標を設定しにくい。これが青島と大きく違っている。 いったい、この地の人々は何をめざしているのだろう?

 西側には、運河に面して工場地域がある。この北京←→杭州をつなぐ 京杭大運河には、たくさんの艀(はしけ)が係留してあり、また、 長く繋がれた艀が運河を走行していた。大運河は今なお現役なのだ(画像)。 しかし、どう見ても有害と思われる煙を吐き出す工場が岸辺に群がっている。 この光景は、僕が子供の頃の横浜・鶴見とあまりにも似ているので、 橋からずっと見とれてしまった。

 大運河広場に韓国料理店があり、冷麺を頂戴した。ここは、 まったくの韓国式。つまり冷麺一つ頼んでも、4つの小皿(キムチなど)と 生レタスが付いてくるというもの。このサービスは日本では見かけたこと がない。ちなみの、その冷麺、日本円にしてたったの80円。OBとHite という韓国ビールもいただいて、もうご機嫌! (2004.10.10)



 ■2004年10月4日、

    淮安火車站
淮安市の東側にある経済開発区をぶらっと一回りしてきた。 広く真新しい道路が走っているのは、青島の開発区と同じ。だが、 トラックやコンテナの姿をほとんど見かけない。そもそも、企業が まだまだ少ない。外国企業では韓国しかなかった。

 開発区に淮安火車站(列車ターミナル)があるので立ち寄ってみた (画像)。農村の中に出来たばかり。新長鉄路という支線で、淮安→埠寧→ 塩城→東台→海安県→如皋→南通まで282qを走る。旅客列車は現在、 1日2便。

 この新長鉄路は、江蘇省新沂から浙江省長興まで全長561q、その 一部がさきがけてこの7月1日に営業開始になったとのこと。本格的開発を 前に、道路・鉄道といったインフラ整備がなされつつあるように 見受けられた。 (2004.10.4)



 ■2004年10月3日、

 クリーンアップされた時計
腕時計のベルトが切れてしまい、別のものに換えてもらった。 黒の時計に銀のベルトというのは似合わない。しかし、そのアンバランス さが粋に感じられて、颯爽と町に出る。

 僕の腕時計は何年か前に買ったCASIOの安物。それまで使っていたのが、 同じようにベルトがダメになり交換してもらおうと思ったら、交換する のと新しい時計とほとんど同じ値段だ、ということで買ったもの。
 考えてみると、そんな風にして20歳代以降、時計を渡り歩いてきた気が する。だから今でも、東京にはいくつかの腕時計がベルトのないまま 眠っている筈だ。その中には、結構がんばって買ったクオーツもあった ような……。
 ベルトと交換手数料込みで、TAXI初乗り料金と同じ6元、つまり80円。 こんど戻った時には、あの眠れる森の時計たちにベルトをつけてあげたく なった。

 もし、そんなことでお悩みの方がいらっしゃいましたら、どうぞ、ご連絡 を。腕時計再生のため協力いたします。 (2004.10.3)



 ■2004年10月2日、

      廃黄河

 黄河に臨む韓信像
昨日一日中雨が降り部屋にこもっていたので、朝から身体がウズウズ、しかも 天気は快晴、さっそく外へ外へと自転車は走る。しかし、昨日の雨で気候が 一挙に秋へと変わった。ウインドブレーカーを着ても、風は冷たい。

 淮安の北を流れる古い黄河へ行ってみた。地図では、「廃黄河」 と記されているところ(画像左)。黄河という名からはイメージできない細い川 だが、畔の『古黄河風光帯記』碑によれば、1194年秋に決壊した黄河の名残り とのこと。

 その古黄河に向かって進軍中なのが、韓信(画像右)。ダイナミックな塑像で、 軍を指揮してどこに行こうとしているのか、その後のイメージを喚起させる ものとなっている。しかし彼は、自身の結末を予測できなかったのだろうか? 「狡兎死、走狗烹」という嘆息で生涯を終えるにはあまりにも惜しかった。

古黄河は、すべてを包みつつ、ゆったりゆったりと流れているようだった。

 ※昔に出したプリント、
「韓信という人間」を思い出し、恥ずかしながらHTML化して掲載した。 (2004.10.2)



 ■2004年9月30日、

      里運河

    南船北馬碑
28日から1週間ほどの国慶節ゴールデンウイークに入った。といっても、 今回はこの淮安とその周辺を知ろうということにして、旅はおあずけ。
 北へ西へとのんびり自転車の向くまま走って、戻ってきたのは「運河文化広場」。左のような光景が広がり、心はなごむ。ここは、里運河という名の運河に面して いる。

 運河沿いには、「南船北馬舎舟登陸」と記された碑(画像右)がある。 「かつて南方人はここで上陸し、馬に乗り換えて北へ向かった」といったことが 記されていた。 (2004.9.30)



 ■2004年9月28日、今日は中秋節。 中国にいると人間にとってふさわしいのは陰暦だと感じられる。青島では写真に までとってしまった。そしてそれから2年。

 「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」
 夜、ひとり散歩してしみじみ満月を仰いだ。 (2004.9.30)



 ■2004年9月26日、寝ていたら、ドカン・ ドカンという音がしてびっくり。しかも閃光まで部屋に突撃!
 打ち上げ花火なのだ。夜、10時半にいきなり打ち上げ花火の開始!

 今日26日から、淮安美食節が始まり、その祝いなのだ。キッチンに出て (僕の部屋のキッチンは外を見渡せる)見ると、花火はすぐそこに落下 しているかのよう。火事にならないかしら、と思うほど。
 学校は、この淮安の中心にある。よって、いろいろな催し物が行われる 淮安体育館は、直線距離にして100mちょっと。すぐTVを点けてみると、 案の定、淮安TVで、「淮安美食節・呉承恩生誕500年記念歌番組」を生中継 していた。その中継場所の体育館前で花火をやっているようだ。

 ところで僕の仕事は、朝7時半に開始。だから毎日6時には起床ということで、 10時前には寝るようにしている。なのにこの騒ぎ。もう、心も身体もしっかり 睡眠を忘れてしまった。 (2004.9.30)



 ■2004年9月20日、

    周恩来故居

    すぐ前の運河
友人が日本から訪ねてくれて、一緒に楚州区に足を伸ばした。楚州は、 同じ淮安市だが、僕の所から20qほど東南に下った町。もともと「淮安」と 呼ばれていたが、2001年に行政上の名称変更があって旧「淮安」は「淮安市 楚州区」となった。

 いずれにせよ、旧「淮安」、つまり楚州の方がここよりずっと古い町 であるようだ。『西遊記』の呉承恩や『老残遊記』の劉鶚 の故居があり、そしてずっと時代は遡って項羽と劉邦時代の、あの韓信 が股くぐりをしたという場所もある。

 訪れた周恩来故居(画像左)は通りからちょっと入ったところにある。 彼はここで誕生、12歳までの少年時代を過ごしたとのこと。入ってみるとかなり 広い。彼の遺言が展示されていて、そこには「記念館を作ってはならない」と しっかり書かれていた。
 なお、画像右は、故居の前を流れていた細い運河。こういった細い運河がこの 町を豊かにし、周恩来を生んだのだろう……と、しみじみした気持がシャッター を切らせたのだが、なんと、運河沿いの左側はトイレだった!(WCと判読できるでしょうか?) (2004.9.30)



 ■2004年9月18日、地図などを見てみると、ここ 淮安はなんと人口500万の都市。自転車で走ってみると、郊外まで東西南北 いずれも約10qはある。
 徒歩10分のショッピングセンターでは、手押しワゴンでまとめ買いしている人々 が目につき、あきらかに青島開発区より購買意欲が高い。ただ、外国企業は少ない ようだ。先日、中国銀行へ行ったら、日本人はほとんどいないとのこと。
(2004.9.30)



 ■2004年9月13日、

    2003年級同学們
僕が担当しているメインは、週4回、8コマの日本語専攻の学生。そこで今日の 放課後、数人ずつとクラス写真を撮った。太陽のせいだけでなく女性が 多いので、まぶしい!
 カメラは、デジカメ、OLYMOPUS CAMEDIA C-700 Ultra Zoom という青島時代 からのもの。プリントアウトで戸惑っていたら、なんと徒歩10分の所に FUJI の デジタルフォト自動印刷機(プロでも頼むようなすっごいの)を置いている ショップがあった。そんなこんなで、写真を渡すのが27日になってしまった けど、写真を手にする皆の顔がとってもほほえましかった。

 その夜、突然宴席の声がかかる。教師節ということで、学院なじみの老板 (主人)が外国人教師を招待してくれたのだ。淮安料理フルコースを 心から堪能した。この淮安料理は味が淡白でなかなかのもの。一番気に 入ったのは「蒲菜」。アスパラガスによく似ていて、すっきりとした喉ごし。 帰って来て調べると、「蒲」とは「ガマ」とのこと。他に、ウナギに似た 「長魚」もおいしかった。 (2004.9.30)



 ■2004年9月4日、ここ淮安は、周恩来の故郷。今日は土曜日、周恩来記念館へ行ってみた。
 周恩来自身は、記念館を建てられることを願っていなかった。よって 完成したのは1992年、江沢民の時代だ。
 公園のように広い記念館を歩きながら思ったことは一つ。 「人民総理周恩来」と中国では言われているけれども、周恩来ほど外国人 に分かりやすい政治家は現代中国の中で稀ではないかということだ。
 あの冷戦の中で、文革の中で、彼の外交手腕は卓越していただけでなく、 外国人の心をとらえた。ガンにおかされながらも、仕事への情熱を失わず、 そして、死後の北京市民の嘆き、それらは外国人にとって、人間としての共感を 感じさせるものだった。
(2004.9.4)



 ■2004年9月3日、袋の中にしまって青島 から持ってきた自転車が「走りたい」というので、乗って街に出る。
 そういえば、この地・淮安に来ることになったそもそもの理由は、自転車 で別の地を走りたいというということだったのだ。青島の二年間で、周辺は 走りあきた。で、きまぐれにこの地へ来たというわけだ。
 ともかく、違ったことをしたい、という動機ばかりがあった。
 ならば……ということで、街を思う存分走りまくってみた。「地方小都市」 と思っていたのだけれど、かなり大きい。前にいた青島開発区より、ずっと 大きい都市、それがここ淮安(わいあん)だ。 (2004.9.3)



 ■2004年9月2日、はじめてのここでの授業。 昨日、さいわいなことに授業がなくなり、一応の準備ができたのは良かった。 と言っても、初めての地で、初めての学生。皆が注目しているその目が、 まぶしい。
 好奇心と期待、それだけは裏切りたくない。 (2004.9.2)



 ■2004年8月31日、昨日、上海経由で中国 にもどり、南京に一泊して、この江蘇省・淮安(わいあん)に、昼、無事到着。
 荷物の整理、明日からの仕事の打ち合わせと、てんやわんやの夕刻には、 外国人教師歓迎の宴。英語圏の方が4人、あとは僕1人。
 英語ばかりが飛び交う中で、ちょびっと中国語が分かる、っていうのは 厳しい。しかし、宴席で出た青島ビールはしっかり頂戴した。 (2004.8.31)



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