韓信という人間

『股くぐり』

 淮陰(江蘇省)の出身である韓信は、若いころ就職もせ ずぶらぶらしていて、他人の家に居候する怠け者であった。
 ある時、「おまえは図体ばかりでかくて刀剣をぶらさげて いるが、本当は臆病者だろ。肝玉があるなら、俺を刺して みな」と人にからまれた。
 しかし、韓信は黙ったままである。
 「オイオイ、肝玉がねえなら俺の股をくぐってみな」と相手は まだからんでくる。
 韓信は、じっと相手の顔を見ていたが、やがて腹這いになり、 相手の股をくぐった。


流浪の身から大将へ

 陳勝・呉広の乱(前209)に呼応して、項梁が兵を 挙げ、淮陰の近くを通った時、韓信はその軍団に身を投じ た。しかし、重用されることはなくせいぜい下士官程度の ポストだった。項梁が戦死し、項羽が楚の領袖となって、 やっと将校クラスに昇進し、色々な策を進言したが、項羽 の性格からして採用されることはなかった。
 秦の滅亡後、韓信は項羽の所にいてもうだつがあがらぬ、と見極め、劉邦に 鞍がえした。
 接待係の職についていた頃、ある罪に連座して首を切られることになったが、 刑死直前、
「あぁ、漢王は天下を取る意志をお持ちでないのだ。むざむざ壮士を殺すとは……」と呟いた。
 夏侯嬰が気づき、そのつら構えに見所があると判断し、処刑を中止させた。
 処刑されかけたことによって、やっと彼は認められ、そして後には蕭何にも 注目され、経理将校から大将までに昇進した。
 劉邦は、張良・蕭何と並ぶ有能な部下を得たのである。


自立

 しかし、劉邦の対項羽戦の途中、韓信は、自立して斉王を名乗った。
 劉邦にとって、韓信の自立は不満だった。が、項羽との戦いの渦中にあり、認めざるを得なかった。
 韓信は、今や一人立ちの首領である。といっても、天下 を争う大集団の頭領ではない。それはもう項羽と劉邦の二 人にしぼられ、韓信に残された道は、どちらかを選ぶかで あった。中立は許されない。
 天下三分の計━━を提言する遊説の士もいた。  が、韓信はそれを否定した。天下の三分の一を得るのではなく、天下そのもの に君臨したいのだ。といってもその力はない。
 ではどうしたらよいか。天下を得られそうな人間に寄り沿って、いつか乗っと る━━これが韓信の野望であった。


『四面楚歌』

 項羽は垓下という街にいて十万の兵で篭城しようとしていた。
 劉邦の要請を受けた韓信は、ここぞとばかり自分の全兵力を漢への援軍に 投入した。他の諸軍を合わせて垓下包囲戦には三十万の軍勢が集合した。 劉邦はその包囲軍の指揮を韓信に委ねた。
 韓信は垓下に会合した諸軍の中から、楚の出身者を選出し、楚の民謡を 一般兵に教えさせた。そして楚歌を歌わせた。
 四面楚歌がそれである。
 包囲された楚軍(項羽軍)にとって、頼みの綱は援軍の到来だった。 ところが、包囲軍の中から自分達のふるさとの歌が聞こえてきた。 援軍は降伏してしまったのか?また、自軍の兵士がそれほどに投降してし まったのか?……項羽自らも弱気になっていった。
 韓信が得意としたのがこのような心理戦であった。


背水の陣(前204)

 韓信の心理戦の極意はこの「背水の陣」に尽きる。
 軍学を学ぶものにとって、水を後ろにするのと、坂を前にする布陣が愚策中 の愚策であることは常識であった。
 だが、韓信はある時、あえてその非常識な布陣をした。
 それは、彼が自立する以前のことで、訓練された軍隊ではなかったため、 わざと退却できない陣をしき必死になって進まざるを得ぬようにしむけたので あった。
 敵の心理だけでなく、自軍の心理をも掌握する━━これが韓信の真骨頂で あった。


漢の統一(前202)

 垓下の戦いで敗走した項羽は、烏江のほとりに自刎した。天下は、漢の高祖劉邦の手に帰したのである。
 都を洛陽に定めた高祖は、祝宴を張り、その席上で自身の部下について 次のように述べている。
  「謀り事をとばりの中でめぐらし勝利を決するという点で、わしは張良にはかなわない。
   内政の細かさ、経済政策、糧道の確保ということにかけては、蕭何ほどわしはうまくやれん。
   大軍を指揮し、戦えば必ず勝つということで、わしとて韓信に及びはせぬ。
   この三人は人傑じゃ。
   わしはそれをよく用いた」
 ところで、高祖は斉王であった韓信を楚王に封じた。斉よりも楚の方が韓信を封じこめるのに都合が良かったのである。


『狡兎死、走狗烹』(前201)

 功労が高ければ高いほど、人々の嫉妬を買う。また、有能であるが故に 主君が危険性を感ずることも多い。韓信の場合、まさしくそれに該当する。
 地方である楚にあって、韓信は自分が危うい地位にいることを察知した。
 ならば、自分が殺される前に割拠してしまおう……。
 鋭い韓信はこう考えた。韓信の指揮能力は高祖も熟知している筈だ。めった なことでは、討伐の軍を派遣することはあるまい……。
 中央にあって命令を無視する韓信に、高祖は心から怒った。といって、 自立を公的に称した訳でもない。陰謀を図るにたけた部下・陳平に相談した 高祖は、天子巡幸にことよせて韓信を誘いだすことにした。場所は雲夢、 今の湖北・湖南の沼沢地帯である。
 前に来た韓信に向かって、高祖は素知らぬ顔で言い放つ。
 「おう、韓信か。そちに尋問したい事がある」
 「えっ、何事ですか」
 「楚王を縛りあげよ」
 あっというまに韓信は縛りあげられた。
 洛陽へ向かう車の中で、韓信は聞こえよがしに言った。
「世間で言う通りだ。……狡兎死して走狗烹 られ、高鳥尽きて良弓蔵さる。敵国滅びて謀臣亡ぶ。……」
 こうして、韓信は王の爵位を奪われその下の侯へと降格 されたのだった。




背景年表

BC221年  秦、天下を統一。三六郡を置く(郡県制度)
  219年  始皇帝、東巡して泰山をまつる。
  218年  張良、始皇帝を博浪沙に狙撃して失敗。
  215年  蒙恬、匈奴征伐に派遣される。万里長城の修築開始。
  213年  儒家および諸子百家の書物を焼く(焚書)。
  212年  儒者四六〇余人を生き埋めにする(坑儒)。
  210年  始皇帝、巡幸中に死ぬ。丞相の李斯・宦官の趙高、胡亥を2世皇帝として擁立。扶蘇・蒙恬を死に追いやる。
  209年  陳勝・呉広の乱。項羽と劉邦、挙兵。
  208年  李斯が殺され、趙高、中丞相となる。陳勝、部下に殺される。
         項羽、懐王を立てて楚王とす。劉邦、張良を登用。
  207年  趙高、二世皇帝を殺害し、子嬰をたてて三世皇帝とする。
  206年  項羽、懐王を尊んで義帝と称す。劉邦、関中に入り秦(子嬰)が降伏。鴻門の会の後項羽が西楚の覇王に。
  206年  劉邦が漢中に封ぜられる。
  205年  項羽、義帝を殺害。劉邦、項羽討伐の兵を挙げる。→漢楚抗争へ
  202年  劉邦、項羽を垓下に包囲。項羽、烏江のほとりで自殺。
  202年  劉邦、帝位につく。(漢の高祖)
  200年  都を長安に定める。
  196年  韓信が謀反の嫌疑を受け、殺される。
  195年  高祖逝去。



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